私の通っていた学校は、成績表が張り出されない学校だった。
しかし、だからといって皆それに甘んじて勉強をしなかった訳ではない。
中間テストや期末テストの二週間前あたりからそれに備えた勉強を個々が始め、
電車の中でもノートや参考書と睨めっこしているのである。
校則も厳しく、基本的に寄り道は禁止。
塾の前に制服のまま飲食店に立ち寄っていることが学校に知れただけで校長室に呼び出され、反省文を書かされる程であった。
もう何十年も前の話ではあるが、先日久方振りに周辺を歩くと、相も変わらず参考書を読みながら駅構内を歩く二宮金次郎のような後輩の姿を目にし微笑ましかった。
(人にぶつからない様注意が必要だが)
このような具合に皆が自分のことに集中している状態で、他人と自分を比較して一喜一憂するような生徒は殆ど居なかった。(少なくとも私の記憶にはない)
むしろ、競争心・嫉妬心むき出しの姿を晒すことが下品でみっともないという雰囲気だった。
校歌の中に「世のため人のため」という言葉があったせいか、「我が我が」というタイプの人間も居なかった。
財閥系や医者の子女が多かったが、そうした家庭の子女というのは地味で控えめな人が多いものだ。
中でも国立大の医学部を目指し生徒会長を務めるなど、人望が厚くリーダーシップも兼ね備えた人には皆が尊敬の眼差しを集める。
そのような家柄のご家庭には、子どもを将来の跡継ぎとして育てるべく帝王学のようなものや家訓があり、その影響もあるのだろう。
うちはごく一般的なサラリーマン家庭ではあったが、私もそうした友人達から人としての品格を感じ、自分もそう在りたいと思ったものだ。
お互いをリスペクト仕合い高め合う関係性があれば、競わずとも全体のレベルを向上させることは可能なのである。
人格形成という意味では、むしろその方が理想的なのではないだろうか。
偏差値では計れないものを与えて頂けたことに感謝している。
このような環境で育ち、いざ社会に出て平気で他人を貶し足を引っ張る人間達を目の当たりにすると、
「この人たちは一体何がしたいのだろう?」
という疑問と嫌悪感しか湧かない。
今でもそれは変わらず、平気で他人に嫌がらせを仕掛けるような、いい歳をして子供じみた大人は生理的に受け付けない。
そうした人間に遭遇することはこれ迄に何度もあったが、幸い自分の軸が養われているのでビクともしない。
仕事も含め、只々自分を向上させることに神経を注ぐことができた。
それにしても、出る杭を打とうとする人間や他人の足を引っ張ろうとする人間が増えていることには驚かされる。
同じ組織に属する者として、
優秀な人の足を引っ張らぬ様に自分も精進せねば
組織の看板に傷付けてはならない
というプライドや責任感はないのだろうか?
何かにつけ人間同士をライバル関係に仕立て上げ、比較しようとするメディアの影響もあるのかもしれない。
人々の仏性が下がると天変地異が起こり易くなるといわれるが、今の現状を鑑みて致し方ないとさえ思われる。
昔の日本人はもっと高潔であったはずだ。
日本人はいつからこんなに堕落してしまったのか…と呆れ果てることもあるが、
つまらぬ人間達を相手に、不毛な争いにエネルギーを消耗している場合ではない。
若い頃は様々な人と関わることを余儀なくされるものだが、そこで更に成長を重ね付き合う相手を選ぶことができるようになってくると、それなりの方々とのご縁に恵まれ、豊かな人間関係を築くことができるようになってくるだろう。
見てくれている人はちゃんと見てくれているし、それなりに評価もして頂けるようになる。
評価は自分から得ようとするものではなく、与えられるもの。
そのためには常に学び、教養を磨く姿勢が大切である。
それはいずれ、決して色褪せることがない自分にとっての財産となるだろう。
外見ばかりに気を取られ取り繕おうとしても、いずれメッキのように剥がれ落ちるものだ。