megamiyamaこと 「土佐のくじら 別館」デス。
土佐のくじらさんによると、「軍事面においての日本国憲法は、明治憲法と同じ欠点を持っている。」
とのこと。
戦前も戦後も、日本人が求めてきたものは「平和と共存共栄の自由」だったはずですが、このままでは、肉食系?侵略国家によって“二度目の敗戦”に向かうばかりです。
土佐のくじら国防論、新旧「日本国憲法」の致命的欠陥を告発?しておられます。
http://blog.goo.ne.jp/orbakuchan/e/8e21ab12d144dae7b0fa085b61e652cc
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
私は平和主義者です。
元々戦争をなくしたいという動機で、歴史や政治、宗教や民族学を勉強する機会を得ました。
よく巷(ちまた)では、日本国憲法は平和憲法で、軍国主義化の原因となった、大日本帝国憲法(通称明治憲法)の
欠点を修正したものだ、という認識がなされていると思います。
日本国憲法は戦争放棄や、自国の防衛力の保持まで禁じた徹底したもので、「日本国憲法は、世界の誇り」と言ってはばからない人たちもいます。
しかし、軍事面においての日本国憲法は、明治憲法と同じ欠点を持っています。
これは日本にとっても他国にとっても、憲法論議をしている方にとっても重要なことのはずです。
つまり、日本国憲法を守っていても、平和にならないのであれば、憲法に人生を捧げた方の時間は無駄になってしまうからです。
ただ、明治憲法の欠陥を修復したとされる日本国憲法とは、同じ欠陥があることは事実です。
護憲派も改憲派も、この共通の欠点から眼を背けていては、平和の実現という、崇高な理念など実現できるはずはありません。
それに目をそむけ、ただただ「日本国憲法大事。」だけ唱えているだけならば、
もはやそれは論議ではなく、日本国憲法教という信仰であります。
ではその共通の欠点とは何か。
第1に、
『 軍隊を誰が統治するかの記載が曖昧である 』ということです。
明治憲法での軍隊の立場は、『天皇のもの』となっておりました。
ですから憲法上、軍隊は内閣の命令に従う必要はありませんでした。
これが、戦前戦中、軍事が独走できた要因です。
そして日本国憲法が施行されて後、自衛隊は発足しています。
現憲法には、自衛隊に関する記載そのものがありません。
ですから、悪魔的知性を持つ誰かが自衛隊を動かして、他国に戦争を仕掛けても、
たとえクーデターを起こしても、それは憲法違反にはなりません。
法律の解釈などどうにでもなります。
憲法に記載されていない法律は無効です。
現行憲法ならば、自衛隊法そのものが無効とも言えるのですね。
であるならば、細々とした自衛隊法に違反する行為であっても、その自衛隊法そのものが無効であるならば、
自衛隊が政治の言う事をたとえ聞かなくても、憲法違反にはならない・・・という解釈も可能なのです。
「だからこそ、自衛隊をなくせ。」とおっしゃる方も多いのでしょう。
しかし、東日本大震災や各種国内復旧作業、そして今回フィリピン台風への具体的支援など、
自衛隊なくして、健全な国民生活など不可能ですし、自衛隊廃止は非現実的です。
良い軍隊か悪い軍隊かを見分けるのは簡単です。
丸腰の人々に対し、銃を向けるのが悪い軍隊です。
丸腰の人々を護るのが、良い軍隊です。
自衛隊はどちらですか?
戦前日本軍は、どちらの軍隊ですか?
一目瞭然です。
良き軍隊は、国内外の治安と平和のためにあるべきです。
良き軍隊なくば、悪しき軍隊がはびこることになります。
それは腸内細菌にも、善玉菌と悪玉菌があり、それらか腸内で抗争し、
善玉菌が勝利することで、健康バランスを保っているのと同じです。
平和は、良き軍隊を勝たせることで実現するのです。
ですから日本は、現存する自衛隊を自衛隊法の上位法に記載し、国防軍として認めることです。
でなければ、実在する軍事力を、誰が責任を持って把握し、戦闘状態の開始と、収束の具体的方法論が欠如したままです。
これは、新旧両憲法双方に、共通している欠点です。
先の戦争の敗因の一つが、大日本帝国憲法の欠陥であったことは私は認めます。
しかし、平和憲法と呼ばれる日本国憲法は、その旧憲法の欠陥をそのまま残しているのです。
とりあえず、前回記事の「日本に侵略的意図を持つ国家への、憲法9条適応除外。」で急場をしのぎ、
順々に憲法論議をして、自衛隊を国防軍として憲法に明記し、自衛隊の目的と交戦の範囲を明記するべきです。
でなければ、平和など夢想です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます