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第4部(3)八幡製鉄所開業で膨らむ電力需要 転載です。

2013-12-31 09:41:21 | (英氏)原発・エネルギー問題

第4部(3)八幡製鉄所開業で膨らむ電力需要

2013.1.17 10:53 (1/4ページ)九州から原発が消えてよいのか

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 九州のリーディングカンパニーである九州電力の登記上の設立は昭和26年、戦後生まれの若い企業である。だが、その源流を探ると、「文明開化」が幕を開けた明治初期まで遡(さかのぼ)る。近代化に伴い、信じられないほど多数の電力会社が林立した群雄割拠の時代から、少数の会社が力を付ける淘汰の時代へ。そして戦時統制により全国一律組織となり、戦後、全国「9分割」が行われ、現在の電力会社が生まれた。その120年の歴史を紐(ひも)解くと、九州の近代化の軌跡が浮かび上がる。

 電気の普及は、日本における産業革命、すなわち工業の近代化が進んだ1880年代後半以降と重なる。炭鉱や紡績工場で夜間作業の効率化を進めようと、企業が争って白熱灯を導入したからだ。

 九州で初めてともった事業用電灯は、明治19(1886)年の長崎紡績工場だが、電気事業者の先駆けは、明治24(1891)年7月1日に開業した「熊本電灯」だった。発明王トーマス・エジソンが、ロンドンとニューヨークで電気供給事業を始めてから、わずか9年後のことだ。

 熊本に本拠を置いていた陸軍第六師団が、熊本電灯最大の顧客であり、発電所用地も無償で貸与した。熊本電灯は「エジソン式直流発電機」を購入し、電力の供給を開始。黎明(れいめい)期の九州電気事業をリードした。

■「雨後の竹の子」…

 明治の日本が国際舞台に躍り出た日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の時期に、工業の近代化が急速に進んだことに伴い、電灯・電力の需要も急拡大した。

 九州各地にも電力会社が雨後の竹の子のように設立された。明治33(1900)年に8社だった九州の電気事業者は、大正2(1913)年には46社にまで増加。膨らんでいく需要を見込んで各地の企業や資産家が次々に電力事業に参入したのだ。

 発電方式を見ると、水量の多い河川に恵まれた九州南部は水力発電が、燃料である石炭産出地である九州北部では火力発電が、それぞれ主流だった。特に九州北部は、電灯や石炭を運ぶ鉄道といった炭鉱電化が進むことにより、石炭採掘量も増え、それが発電の燃料費を引き下げるという好循環を生むことになる。

 麻生太郎副総理兼財務相の曾祖父で「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた麻生太吉も明治41(1908)年に嘉穂電灯をつくり、電気事業に飛び込んだ。その際、太吉は「電気は石炭で起こす。石炭をもっとる我々が電気を起こしたら、高い電気代を払わずにすむ。ヤマ(炭鉱)だけでなく、飯塚の町に電灯の花を咲かせよう」と語ったという。

■中核企業の台頭

 だが46社もの電力事業者による“群雄割拠”は、裏を返せば絶対的な存在がないということだった。ひしめき合う脆弱(ぜいじゃく)な電力会社は、経営環境がちょっと悪化しただけで破綻する。九州のファーストランナーだった熊本電灯は、発電所の事故と石炭価格の上昇に耐えきれず、わずか10年ほどで歴史の幕を閉じた。

 破綻までいかなくとも停電は日常茶飯事。小さな電力事業者同士で電力を融通する考えはなく、あったとしても、周波数がバラバラで融通できなかったのが実態だ。電気事業者が林立していた当時の九州には25ヘルツ~60ヘルツまで複数の周波数が混在していた。この状態で発電設備のトラブルは即、送電地域の停電に繋がった。

 料金格差も大きかった。事業者間の競争が激しく料金が安い福岡県内と、地理的条件から高額だった鹿児島県・奄美大島や長崎県・五島では1・7倍もの開きがあった。

 そんな電力事業者の中から、徐々に周囲の同業者を併呑し、大きくなった中核企業が生まれてくる。その代表例が、北部九州を拠点とする「九州電灯鉄道」「九州水力電気」「九州電気軌道」の3社だった。

 ■「電力戦」の激化

 第1次世界大戦(1914~1918年)下の好況に沸く中、福岡県では、官営八幡製鉄所の設立などにより、九州の電力需要の7割を占めるほど工業化が進んだ。この大市場で、九州電灯鉄道、九州水力電気、九州電気軌道の3社は三国志さながらの需要争奪戦を繰り広げた。巷で「電力戦」と呼ばれたほどだ。

 その一つである九州電灯鉄道は明治45(1912)年6月に誕生。長崎・壱岐出身の実業家で、後に「電力の鬼」と呼ばれる松永安左ェ門が中心となって設立した「福博電気軌道」が母体だった。

 それから2カ月後。元号が大正にかわった8月、九州水力電気が福岡市へ進出する。大分・日田の玖珠川に当時最大級の水力発電所を構えていた「日田水電」を、「富士瓦斯紡績」(富士紡ホールディングスの前身)が買収して誕生した同社は、豊富な発電能力を武器に福岡市場に殴り込みをかけたのだ。

 一方、八幡製鉄所の設立以来、重工業化が一気に進んだ現在の北九州市では、九州電気軌道が電力事業に参入し、規模を急拡大していた。

 九州電気軌道は「門司電気鉄道」などを母体に、明治41(1908)年に誕生した。初代社長は、明治の元勲・松方正義の三男で、川崎造船所(現・川崎重工業)の初代社長を務めた松方幸次郎だった。

 「九州の電気事業統一」。この目標に向かって中核企業が覇を競うパワーゲームは戦争により一変した。


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