にわかに雲間から日が差し始め、虹が出たの天賞を古への人は「吉兆」と言ったはず
東京から南西2500kmにいた不肖kazanは、その光景を、作家・百田尚樹氏が発信したリツィートで知りました。
おめでたい、国家的、国民的慶事の日にそぐわしい「吉兆」と見ました。
この吉兆は、あるいは、とも思い浮かべたのですが、そこは、即位礼正殿の儀の当日であれば、あえて、思い浮かべた思いを発信することが、はばかられまして、その部分をスルーして発信したのですが。。。
現実主義者のKazanですが、ご即位令正殿の儀と絡めるなら、「吉兆」と見るのがふさわしいという思いが強いです。
きっと、こうなるだろうと言う、想像と展開は、本日は、国家的慶事故に、明日以降の発信に。。。
きっと、こうなるだろうと言う、想像と展開は、本日は、国家的慶事故に、明日以降の発信に。。。
— katsukazan (@asanai106) October 22, 2019
48時間経過の今なら、言ってもいいだろうと思い、ブログ更新
「吉兆」
すばらしいことです。
正直、霊感すら感じます。
伊勢神宮の参道で感じる霊験のように感じる静謐感と同じ次元の感覚に近いものがあります。
今日は、さらにそれを拡大したら、kazan的には、こうなったという展開を発信したい。
これは、嶋中事件のもとになった、風流夢譚の真逆を往くことかもしれません。。
日本の国体の弥栄の慶事での吉兆は、これを良しとしない勢力のパワーが弱体化し、彼らの発信力の衰退を意味することも、実に吉兆そのものでしょう。
1945年以降、あからさまな国民の価値観への分断と対立を煽ってきた、哀れで儚く、愚かな勢力が日毎に劣化し、その存在がフェードアウトしていくことは、実に喜ばしい、慶事そのものです。
10月22日、令和の佳き日の吉兆に霊験を感じるなら、感受性の強い、敏感なkazanの水晶玉には、ことあれば、権利、平等、不当を声高に叫ぶ反日リベラルの発信が、やがて、言論空間や、日本の精神風土からフェードアウトしてく様が見えるような気がします。
これこそ、まさに吉兆です。