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学生時代の友人T君は、当時、美空ひばりを絶対的に評価する熱狂的なファンでした。
時代は、フォークソングが黎明期。
渋谷のレコード店の前を通れば、カルメン・マキの「時には母のない子のように」が流れ、仲間内でも、佐原直美「いいじゃないの幸せならば」、鶴田浩二の「傷だらけの人生」、いしだあゆみの「ブルーライト横浜」が、その一年か二年後には、浅丘ルリ子の「愛の化石」が流行っていたのも覚えています。
まだカラオケが無い時代、二次会か三次会で、放歌高吟ゴメンの学生向きのお座敷をウリとする居酒屋が東急本店脇の「山の里」で、恋こがれた同じキャンパスの女子学生への思いが叶わない仲間の一人は、座敷で、セカンドという名の日本酒の二級酒をあおり、「愛の化石」を歌ってクダを巻いていた時代です。
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キャンパスでは、音楽系サークルの学生たちが、フォークギターをケースにいれて登校し、休み時間には、ジョーン・ヴァイズの歌をハモっていたような時代だから、神がかり的に麻雀の強い、美空ひばりファンの友人は、こと、歌の好みでは、なんとなく年こいた友達という印象がありました。 実際は同じ年だが。。
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そんな感性のkazanが卒業すると、数年でカラオケが静かなブームになり、勤務先があった赤坂には、今でいうスナックとクラブの中間のような、飲める店で、ギターの語り引きや、ピアノの伴奏で、好みの歌を歌えるような場所がはやり始めていたと記憶します。
こんな始まりで、酒と歌・音楽はお決まリのセットであり、コースでもあり、場数を踏めば、かなり大胆な店でも公然を歌えるくらいにはなる言う経験をしたのもその時代だったと思うデス。
■■■千文字オーバー。。(汗)
次投稿に繋ぎます。j