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ブログ katsukazan/活火山★時々の四方山話

昭和天皇が、あの二人のファシストと同列に見られ事態

特命全権大使は特別職の国家公務員かつ外務公務員であり、その任免は、外務大臣の申出により内閣が行い、天皇がこれを認証する(認証官)。

つまり、特命全権大使は国家元首の信任状を持参して派遣先の国家元首に信任状を提出するのが外交プロトコールである以上、認証者たる国家元首の祖父の名誉を毀損し、それを許したような事態は深刻、重大と考えます。


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「昭和天皇が、あの二人のファシストと同列」にされて、駐ウ日本大使への叱責も帰国命令も無い、

そして、林芳正外務大臣へのお咎めも無しなら、日本の「役人天国説」は未だ、健在である証明みたいなものではないの?



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二人のファシストは、日本が三国同盟に加盟した頃の政権を担っていたとしても、

イタリアは第二次大戦開戦時から1946年の王政廃止に関するイタリアの国民投票によって、共和制に以降するまでは君主制・立憲君主制下で、1943年7月24日のファシスト党内のクーデターによりムッソリーニ政権(内閣)は崩壊する過程を経て、1943年11月9日、バドリオは戦艦ネルソン上で、休戦協定を無条件降伏協定へと変更する文書に署名 。

ところが、降伏に先立つ、同年(1943年)10月13日 には、イタリア王国軍は共同参戦国軍として ナチス・ドイツに宣戦布告しています。



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世界史が好きなkazanですが、イタリア王国軍のナチス・ドイツへの参戦は、今回複数のWiki情報で知ることに。。

当然ながら、戦争指導内閣の指導者であったムッスリー二内閣が倒されてから、それまでの国王が、ドイツへ参戦し、1945年4月28日 に、内戦状態のイアリアで、パルチザン系政治的敵対勢力(細かい党派の記述は省略)に身柄を拘束されて、愛人と共に処刑とういのが正規な歴史記録デス。




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ヒトラーはソ連軍によってベルリンが陥落しヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将による降伏で1945年5月2日でナチス・ドイツは終戦になるが、その3日前の4月30日に自殺したのは、記録とおり。。

多少なりとも歴史を紐解ける素養があるなら、戦争遂行能力も戦争統治能力も欠落した二人のファシストと、昭和天皇を同列に扱う、そして扱われる理不尽に、一国の全権大使であれば、赴任先の大使館の組織の総力を挙げて、かような発信がされない情宣、環境宣撫活動は最優先事項であるはずと考えます。


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長年に渡り、海外感覚では、「同列」という認識を、外務省感覚では十分に認識していたはずで、さらに怠慢なことは、

歴史認識レベルが低すぎで、1943年~1945年時、三国同盟にあった枢軸国の歴史学習を、知らずして、外務官僚になっている実態がここに露呈したようなものだ。

過去から現在に至るまでの歴史の枠内で、三国同盟の三国の政治と政府の意思決定システムの違いを、学習し、外には明確に宣撫してこなかった怠慢、不作為を指摘したい。

結果、ウ国当事者が知らずして、一般的な認識で発信したことには、まず発信撤回と謝罪要求、そして、それ以上に発信を許してしまったことの責任追求は不可避だ。

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その為に、平時は、赴任地での優雅で甘い生活を許容してるのは、この時に詰め腹を切らせるが為と言っても過言ではない筈だ。

単に入省年次の序列で、大使に任命され、場所によっては、現地で入手できる最上級のワインの品定めが出来るような環境を許しているのは、甘い、甘美な特権ではないことを、身をもって知るべきだ。

今回は、緊張感が足りないというより、まるっきり欠如してるようなものと見られても言い逃れは」できないだろう。

時が明治なら、大使が不作為の責任を取り、古式豊かな自裁死があって、初めて花道に名を残すレベルの事態であり、ヌメ~と、そしてシラ~と非難の風が静まってシャンシャンシャンでは納得できないと考える人は多いハズと思うデス。
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