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世界平和というものは・・・

2010-08-25 13:32:54 | スピリチュアル
 世界平和というものは、完全平和というものは、

絶対できると私はいつも言いますのは、それこそ

想いを浄めて祈りに高めていって、そして祈りが

本当に愛一念になった時には光になります。

 光になった時には、闇は光に勝ちませんから、

そこで、どんな武器であろうと人を損なう想いで

あろうと何であろうと、そういうものを全部、

もう闇のものを全部光に変えちゃう訳です。

 ですから、そこで武器というものは無くなって

しまう。あっても無用のものになってしまう。

 そういう現実が来るんです。その現実を来たらせる

為の世界平和の祈りなんです。


 そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発

していって、一人一人が神様の器なんだということを

本当に自覚できた時には、皆の心が平和になってくる

訳です。

 平和になるということは、さっきも言いました様に、

祈りが消極的なものではないというのと同じように、

平和であるということは何であるかというと、

どうなるかというと、自分の中のさながらの生命が

生き生きと生きづいて、根本の自信が出て来まして、

そして、意欲に満ちて働いていきます。

 そして、自分の後に守護霊さん、守護神さんという

ものが守っている、神様というものがいる、あるいは

五井先生というものがいて、そうして、世界平和が

実現する、ということが本当に自覚されて来ますと、

自分が働いてるんじゃない。

 生かされてる喜び、生かされてる充実感というものに

満ちて働いていきますから、今までの何十倍もの力が

出て来る訳です。


 そうやって一人一人が持ち場持ち場で動いていって

付き合ってく。色んな人と付き合ってく。話をしていく。

 仕事をしていく。ということになると、もうそれが

一部の宗教家だとか政治家だとかいう方面の人達だけの

ものではなしに、皆の心が開発されていって、そこで、

平和というものが段々段々広がっていって、世界平和と

いうものがついに完成していく訳です。

 それが私には見えている訳です。


 幽界なんぞというものは今でもあります。そうして、

人間のそういう本質、本心、本体というものの光を

遮ろうとして、色々な障害をもってまいりますけれども、

しかし、何をもってこられても、先程申しました様に、

我々の心、気持ちというものが揺らいでも、本心本体と

いうものは揺らがないのでありますから、寧ろ我々の

本心本体というものは完全平和を目指して生きる器で

ありますので、光というものを受けている時というのは、

そういうものを受けつけません。

 そうして、そういう想いを包んで愛念にかえて、

そういう想いを持たされた人達を本当の意味で呼び醒まして、

仲間にして、今度は一緒に共々に世界平和を祈る仲間に

してですね、何十人もの何百人もの仲間を増やしていく

訳です。


 今、世界平和を祈る運動というものに白光真宏会が

つき進んでおりますけれども、これは、世界人類、どんな

国の人も、民族の人も、世界が平和であるようにという

共通の想い、それを祈り言葉にすることによって、その

言葉を想い浮かべることによって、自分の本心が神様の

愛と合致して、そして、光となって一体化していく。

 その本心開発の運動を今私共の会が先達となって

やっていってる訳であります。


 こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、とても

ではないけれども、この地球の想念の汚れというものは、

一朝一夕に拭いされるものではないのであります。


 我々の生命というものは、いつも申しております様に、

生き通しの生命であって、それはずーっと天命にまで

流れ込んでおりまして、ただ魂の覚醒というものがどこで

世界平和の祈りに会うかということ、これが大事な

いわゆる時間というものであります。


 法然も親鸞も時期相応ということを考えておりまして、

その時期相応の祈り言である南無阿弥陀仏に出会うまでに、

彼等は随分学問も致しました、悩みました。

 あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を六年致しました。

 その苦しみというものは、無駄ではありませんでした。

 苦しみを通して、ただ一部の人だけが救われるもの、

魂が救われて自分が救われていくものであれば、これは

小乗なのであります。大乗の祈りではない。人類の祈り

ではないのであります。

 人類の宗教ではないのであります。愛ではないので

あります。


 人類の、我々共通の、なる程と想えるものというものは、

誰もが納得できるものでなくてはならない。

 しかも、易しいものでなくてはならない。そして、

誰もができるものでなくてはならない。

 そして、任せられるものでなくてはならない。この

三つ四つの条件が、全部今の状勢の中で出来るといったら、

これは、世界人類が平和でありますようにという

この祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、

それしかないのであります。


 祈りというものは、強制できるものではございません。

 それは、その国の人々の民族性や信条や、あるいは

宗教や習慣や風土、その違いがございますので、これは

何も強制できるものではない。


 ただ我々は、その人々の中に眠っている、あるいは

気付いてはいても弱い気付き方である、世界人類が平和で

ありますようにという、元々の根元の祈りの芽を、あるいは

ピースポールによって、あるいはステッカーによって、

あるいは白光誌を手渡すことによって、それを呼び覚ます。

 その役割をするのであります。ですから、

その手渡すということは、すでに私がそこで働いて、

その人を通して一番いい、その人が生き易いやり易い方法で、

この祈り言がその人の生命の中に生活の中に生き方の中に

入っていく様に、守護霊守護神さんと倶に私が働いていくと

いうことでありまして、その点で皆さんは、本当の意味に

おいて繋ぎの役を、後は五井先生がしてくれるから大丈夫だ

というその位の軽い気持ちで、しかし、本心開発の為にこの

祈り言が絶対に人類の為に必要なんだという、そういう

自信と覚悟をもってこの運動を広めていっていただきたい。


 そうすることによって実は、想いとか言葉とかいうものが、

その想念の汚れというものが浄められていくのであります。

 想いとか言葉とかいうものがどうしようもないやり切れない

暗いものだという歴史が、そこで段々段々縮められていくので

あります。


 実は、言葉の光明化、想いの光明化ということをやって

いかなければ、我々本心本体の一体化というのは出来ないので

ありまして、この身さながらに神様の生命である、神様から

流れ来たっている真理、愛と一体なんであるという、その

遠大な目的というものを達成する為には、やはり、この

世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊様守護神様

ありがとうございます

というこの完全な愛と平和のお祈りを唱えることによって、

我も他人(ひと)も一体になる。

 そうして、神様の生命とすこやかに一つになる。

 ということを信じていくことによって、我々個人の

想いも苦しみも、又救いとられていく訳であります。


 もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、

私達さえ良ければいいという時代ではない。

 たとえ白光真宏会に入っていない人達の中でも、

この本心開発がなされていかなければ、この地球の

浄化あるいは大きく言えば宇宙全体の調和というものは、

有り得ないんだと。

 だから、白光に入れる入れないではなくて、その

本心開発の芽を我々がどれ程無になって、それぞれの

持ち場持ち場、立場立場でやっていけるか、その為に

自分をむなしくして祈る。

 祈って、そうして今かかえている課題や悩みや嘆き、

そういうものを全部私に預けて下さる。

 そういうことが今一番必要なのだと思います。


                     五井 昌久