人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信

2010-09-25 11:23:01 | スピリチュアル
 生命を生き生きと生きること、これが人間の本来の

姿であります。

 
 ところが、この世の中にくらしておりますと、中々

いつも生き生きというわけには参りません。


腹の立つことも、かなしいことも起って参ります。


 普段、何もない時は、神様、世界人類が平和であり

ますようにと祈れるけれども、辛い悲しいことが

起ってくると、なかなか祈れない。そして、良心の

鋭い人であればある程、自分を責め抜いて、自分の

光を弱めてしまうということになるのであります。


 わたくしは、この感情と申しますか、心の、気持の

起伏ということを認めた上で、しかし、人間の本来は

生き生きとしたさながらの生命、光そのものなのだと

申し上げているのであります。

 人間の本体というものは、何があろうと動かされる

ことなく、光っている、光明体、白光そのものなのだ

と申しているのであります。


 これは、誰かれの区別なく、人間は、一人のこらず

そうなのである。なぜなら、私どもは、神から

分かれてきた生命、神の光の一筋だからであります。


 世の中を生きてゆく上で、さまざまに悩んだり、

苦しんだりするのは、それは、教義にも説いており

ますように、過去世の業が、時を得てあらわれ、

そして、消えてゆく姿であって、思い悩む自分が、

真実のあなた自身ではないのであります。


 けれども、私は、人間の心というものを否定致し

ません。私もまた、人間に生れて、種々のよろこび

とともに、かなしみや寂しさを味わい尽くしてきた

一人であるからであります。


 人間の心というものは、自然を感応出来るように

つくられております。もろもろのいのちの呼び声に

対して、感動し、また対話を重ねてゆくことができる

微妙さをそなえております。


 なぜ、私どもの心に、かなしみやさびしさが

たくわえられているのかといえば、この自然の、

もろもろの生命の呼び声に対して、心耳を澄まし、

とけ合い、それらの生死と一体となって、ついに神を

たたえるそのゆたかさのためにたくわえられている

のであります。


 まことに、我々は自然の一部であります。が、この

種々の感情は、人をはなれたものではありません。

 我々は、幾人幾十人の人と心の機微をかよわせてこそ、

生きているということがいえるのであります。

 かなしみや寂しみは、この心の通い合いのなかで、

やさしさと愛をはぐくむ源となってゆくものであります。


 誰一人として辛いこと、悲しいことを歓迎する人間は

おりません。しかしながら、人の痛み、負った傷、また

負わされた傷の深さをはかって、真実に、人間本来が

持っております愛と、そして、やさしさを発揮する

ためには、時に耐えがたいかなしみや、寂しみ、また

怒りすらも味あわされる。

 これは、業ではなくて、あなたの守護霊、守護神が、

その魂の成長のためにおいたつまづきの石であるので

あります。


 業とは、すべてのことにとらわれ、こだわりつづける

ことであります。

 よいことであれ、わるいことであれ、とらわれつづける

時、我々は、我の世界におちこむのであります。

 わがままと申しますが、これは、我のままに動かされる

人間のすがたを申したものだといってもよいでありましょう。


 かわいらしいわがままもありますが、自らのいのちの

すがたに気付かず、それを歪めてゆくというのは、これは

最大のわがままであります。


 いのちのすがたというものは、先にも申しましたように、

何物にもとらわれず、動かされず、あるがままのすなおな

光そのものであるのです。


 私どもは、この生命を持って生きている。この生命に

よって生かされているのであります。このいのちが

なければ、私どもの肉の身は、とっくの昔にほろんで

おりましょう。


 そして、このいのちとは、神の愛と智恵とやさしさに

ほかなりません。私どもは神からながれてくるこの三つの

ものによって、瞬々刻々、この生命を生きているので

あります。神の愛という神の息吹きのながれを受けなければ、

私どもの生命は、全くその流れをとめてしまうのであります。


 このように、神の愛によって生きている私ども、生かされ

ている私どもの生命が歪められてそのまま、不幸の唯中に

つきおとされるということはあり得ないのであります。

 私どももこの愛のなかに生きている、私どもは光の住者

なのであります。


 神の愛というものは無限に深いものでありまして、その

働きは人智を越えております。


 神様は、守護霊は、守護神は、我々一人一人のいのちを

すこやかにみちびくために、ひとときも、あなたのそばを

はなれることがありません。


 どうぞ、世界平和の祈りによって、かなしみの唯中に

あるあなたのこころを、私に、神に頒け、おまかせの

いのちとなって祈り一念におすすみ下さいますように。

          
 世界人類が平和でありますように
       
                   合掌

                     昌久

             
                     





無 題

2010-09-24 12:53:55 | スピリチュアル
宗教宗教とむずかしく考えなさんな

ようするに

人も自分も大事にして、祈り合うということです



愛する努力はいくらしてもし足りない

足りないところは

神様がおぎなって下さる

そう思ってなお愛することです



誠実に誠実に

あくまでも誠実に



心をつくすということは大事なことだ

がむしゃらではない心配りだね



みんな生かされているいのち

この真実を大事にして生きてゆきましょう



無慾とかくと

いつの間にか無慾ではなくなっている

けれど

無慾になろうとする心が尊いのだ



すべては神のみこころと思って

私は投げ出した



どんなに誠実をつくしても

誰もみてくれないというのは間違いだよ

守護霊守護神がみているし

私だってみている








中心帰一

2010-09-22 13:18:04 | スピリチュアル
私たちのいのちは

ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで

つながり、つらなっているのであります

無限のなかで

私たちは生かされているのです


祈って祈って祈り抜き

すきとおるまでに高い魂を持つ兄弟たちが

私たちのこの地球と地球人類に

光を送りながら

進化の行方(過程)を見守っている

のであります


彼らはずっと前から光を送りつづけて

くれていたのですが

今や

私たち一人ひとりの器をとおして

地球の浄化を

私たちとともに

成し遂げ

宇宙神のみこころである

宇宙の完全平和にむけて

まい進してくれているのであります


私たちの器

それは

世界平和の祈りを祈りつづける

ときに

人間本来の霊光をあらわす

光明体としての私たちの器を

いうのであります


前にもいいましたように

人は

自覚せざる霊人であったわけですが

今日のように

変化の激しい時代

まさにこの地球が

新しい時をきざもうとするこの時期に

あたっては

私どもは

霊(神の智慧の光)が私どもを

みちびいている

私どもはその光を持っているのだという

事実を自覚しつつ

世界平和の祈りを祈りつづけることに

よって

一人一人が

光の送り手となっていかねばならないときに

なってきたのであります

一人一人のおもいと祈りがこの世界を

かえていくのであります


こう申しますとちっぽけな人間一人に

何ができるか

と多くの人は思ったようでありますが

それは

人間というものを

肉体という不自由きわまりない世界でしか

生きないものとみるところからくる

思い込みでありまして

くり返して述べておりますように

人間というものは

そんなちっぽけなものではない

のであります


人間は

神の分生命

分霊であって

つねにその大愛と無限の世界から

光を送られているものであり

また同時に

神界霊界幽界にも存在して

働きつづけているものなのであります


つまり

人間というものは

自由自在な働きを

本来

その世界で

神の光をうけながら

なしつづけていくものなのであります

なしつづけているものなのであります


ところが

この肉体というものをまとううちに

肉体にまつわる我というものが

出て参りまして

本来肉体は

人間の地上での衣服であるにすぎない筈

だったのが

長年月の間に

業想念と光とが入りまじってしまったので

あります

そして

それを人間のすがただとおもい間違って

しまったのであります


そこで

この地上に生きる我々自身の長い間の

思い込みを払い

自分自身をのこりなくあらわすために

すなわち

光明そのものの自分

永遠のいのちのなかに神をたたえてゆく

自分をあらわすために祈りというものが

必要になったのであります


なかでも

消えてゆく姿で世界平和の祈りを

なしつづけて参りますときに

我々は

大元の生命

光へとかえってゆくのであります


いのちというものがずっと神から

ながれてきて

私どもを養い

光(愛)が我々の智慧として

本心を照らしているという事実を

私どもはこの世界平和の祈りのうちに

しらされてゆくのであります


そうして

我々人間の本来の姿

愛と

智と

祈り

のうちに

朗らかに生きとおして

神のもとへとかえってゆく人間のすがたは

実に永遠に宇宙へと溶け入り

遂に

中心帰一

神の

大慈光のなかへと

みちびかれていくことをしるのであります






無 題

2010-09-21 12:45:11 | スピリチュアル
おもうな、神様がして下さる



友情というものが大切なように、

神に情けをかよわせていれば

気持がらくになる



孤独におちいったら、心が動くままに

任せなさい

じっとして耐えることは自分をつよくするし、

自然な心の波に任せていれば、

守護霊が動いて下さる


ねたみやそねみはたしかに業想念には

ちがいないけれど、その人の魂の成長のために、
 
守護霊や守護神がうんとその気持を味あわせる

こともある

だから、人の話をきく時は、その人その人の天命を

祈って、決して責めてはいけない

叱ることが必要なら、自分でも気付かない内に

叱る自分が出てくる



痛みや苦しみは、光をかがやかすための

通過点



おもいを放すこと、そうすれば

全てがありがたくなる



世界平和の祈りは、すべてを投げ出す

感謝行の祈り



祈りほど楽しいものはない



とつおいつしている間にも、

神様は道をそなえて下さっている