晩ごはんのあと、なにがきっかけだったか、吉本の『共同幻想論』の理解について、夫の話が大盛り上がり。
この本です。
若い時に、繰り返し、繰り返し、読み続けた本。
買った日付けが記されていた。
“アテネ”は、書店の名前。
今はもうない。
それにしても1970年の時というと、私はいくつだったろう……。
夫との会話は、まさに「共同幻想とは、なにか」。
同じ年齢で同じ頃、ちがう環境で、吉本を読み、お互いがどう理解したのかは、異なっていて、かなり面白かった。
そして同じ時間を経て、またその理解がどう変化したのかとか、話題は尽きず2時間ほど、喋っていただろうか。
吉本の“共同幻想”という思想が、レヴィー・ストロースの“構造論”と類似しているという議論というか批判があったそうだ。
全然、知らなかった。
吉本が『共同幻想論』を執筆し上梓した頃はまだレヴィー・ストロースの『構造論』の翻訳が出版されていなかったらしい。
「学生時代だったか、みすずかどこかから出版された『構造主義とはなにか』みたいな本を読んだ記憶があるよ」と私。
「それは、『共同幻想論』が出版されてから4,5年あとだよ」と夫。
検索してみると、確かにそうだった。
『レヴィ=ストロース『構造人類学』荒川幾男、生松敬三、川田順造共訳 みすず書房は、1972年が初版本。
吉本が、フランス語が堪能であれば、原文のレヴィ=ストロースを読んだかも知れない。
しかし、それは不可能に近い想像にしか過ぎない。
更に話は、吉本から飛んで、戦前のドイツ文学から、敗戦後のフランス文学の流行についてになる。
仏文出身の書き手は、加藤周一、大江健三郎、澁澤龍彦、天沢退二郎、辻潤、武田無想庵、そうそう永井荷風や内田百閒もかな、などなど、数え切れないほどいる。
あらためて、驚いた!!
本家本元のフランス文学は、あまり読んでいないけれど、加藤周一や、大江健三郎、内田百閒、永井荷風などは、ほぼ全作、読んだような気がする。
高校生から大学生時代に、そして、大人になっても永井荷風や加藤周一とかは、読んでいたかな。
古い本棚をみると、吉本の本がどっさりあった。
本をどんどん処分していたので、『共同幻想論』ぐらいしか残っていないと思っていた。
およそ、30年ぶりぐらいに手に取ったかも知れない。
本棚に発見した吉本。
この列の後ろに並んでいた吉本。
さすが、この私でも、処分しなかったのだと、思った。
埴谷雄高は、見事に、消えていたけれど。