
この書で柳田が言う妹とは、現在でいう兄妹における妹を指すのではない。
ウィキペディアなどで、検索していただけば分かるとおり、日本は古代より、女性には霊力が備わっているという風に考えていた。
クシナダヒメやオトタチバナヒメなど有名だが、男性神(まぁ、ヤマトタケルだけどね)へ、その霊力で、国家覇権への力の大いに後ろ盾になっている。
その彼女たちの霊力は、日本創世の物語のなかにだけにとどまっていたと思ったら大間違い。
先の太平洋戦争の時にでも、恋人や、妻や、母の、髪の毛を、携えて戦地へ赴いた兵士が沢山、いたらしい。女性の髪の毛には霊力があると考えられていたのだ。
日本の敗戦の所為か、思いの外、日本的思惟や文化が後進的なイメージだと日本人は思うようになったのか、イモ(妹=女性)の霊力は地に落ちて、文学の世界に、現れることは、まず見かけなくなってしまった。
そのかわりなのか、ここのところ、登場しはじめたのが、「叔父の力」である。
この叔父の存在が、現代の児童文学に、どのように寄与しているか、勘ぐってみたい。
まず、どんな叔父さんかというと、そこのところ定義してみる。
◎ 70年代学生運動挫折組 → むやみに健康自然派指向、どこかの高原で、有機農法やら無農薬やらの農業従事者になっている。
◎ 絵描きなど芸術系を目指し生業をもたない青年。→過去の人間関係を引きずっている。
◎ 同性愛か、ジェンダーフリーっぽくて、で、なぜか意味不明の陰がありつつも、妙に明るく軽い。
大雑把すぎるが、現代の児童文学に描かれる「叔父」の代表的なタイプだ。
ほぼ、いわゆる、アウトサイダーというかアウトドロップした方々。
実は、これら「叔父」たちは、この既存の社会を否定する姿勢、あるいは、社会からドロップアウトしたということが、教育制度、家族制度に於いて悩む、小学校高学年と中学生1年生ぐらいまでかな、彼女たちにとって、かっこうのユルイ場、非現実的で幻想に過ぎない関係を提供していると言えないか。
この思春期の世代女子には、ドロップアウト叔父が、まるで、なにか意味があるというか、包容してくれるというか、そういう幻想の対象として、あまた書き手によって、描かれる。
分かるんだよねー、そういう幻想を抱くアイディアって。
あの時代、いっぱい、挫折しちゃった男たちをみてきたから。
だけど、
いろいろ、結構、こういう雰囲気的作品が出版されているけれど、実際のところ、思春期入り口の少女たちと、真剣に向き合って対峙している作品って、なかなか見つけられない。
で、雰囲気だけは、もや~っと流れて、なーんも根っこについては向き合いもせずに、主人公は、叔父の畑で、農作業をやったり、なにやら身体を動かして、なにを悟ったのか、また都会の家にと帰ってゆく。
そこには、家出された両親が、なにやら反省して、親子、理解の構図がある。
ケッ!である。
せめて、「地球屋」の爺さんが雫ちゃんに言ったセリフぐらい言ってもらいたい。
雫ちゃんぐらい、せめて、やみくもに頑張っるっていいんじゃないの。
「叔父」さんは、権力を持っている父でもなく、兄の立場のように、優秀か、orどうにも訳に立たないアホでめんどくさい立場でもない。
なんといっても好都合なのは、恋人にもボーイフレンドにもなり得ない、ある意味、安全領域の異性であり、思春期の少女にとって抑圧にしか思えない世間から、ドロップアウトした「英雄」???(?何個でもつけるわ)
いわば、物語を書く作家は、少女たちにとってアジール的避難場所だと、安易に思っているにちがいない。
「叔父」という、立ち位置の男を幻想視し、主人公と向き合わせるのなら、もっと、真剣に対峙させて欲しいものだ。
あまかぁ、ないぞってね。
というわけで、「叔父の力」に頼る児童文学の一部、作品に大不満。
柳田の『妹の力』を読んでから、「叔父の力」について、児童文学作家は、しっかりと考えてもらいたいものだ。
安易なアイテムに頼ってはいけない!!とわたいは、考えるのであります。