今夜も、漱石つながり。
思えば、私の半世紀とチョイの読書人生に於いて、忘れたころに漱石と縁の深い人が、忽然と現れては、心に沁みる足跡を遺してくれた。
セルゲイ・エリセーエフも、その一人である。
この『赤露の人質日記』は、セルゲイ・エリセーエフ自身が、日本語で執筆した書である。
ここが、ラフカディオ・ハーンとの、決定的な差違だ。
憧れの日本に留学し、羽織袴でポーズを決めるセルゲイ・エリーセフ。
『赤露の人質日記』というこの本を、書店で手に取って買って来たのは、なぜかは、今はもう、まったく覚えていない。
その頃は、札幌に住んでいたが、私は日本海に面した小さな町、留萌というところで、幼少期を過ごした。
私の、小学生の低学年のころ。
その頃、昭和で言えば、30年代、西暦で言えば1960年代、日本海に面した小さな町の港にソ連の大型船が度々、入港した。大人になってから調べてみると、貿易特区のような港になっており、ソ連からラワン材など木材を積んで大型の輸入船が来ていた。
私が、初めてみた、白人は露人である。
私が、初めて覚えた外国語は、ハラショーである。
その大型船でやってきた露人は、留萌の小さな町の市街で、ショッピングを楽しんでいたのだろう。結構、気軽に住民たちとやり取りがあり、子どもの私たちにも、外国人という警戒心はなかった。互いに珍しいもののもやり取りもしていた。
私にとって、露人は、馴染みのある人たちであり、いつも眺めている海のむこうの国に住む人たちであり、中学生頃から高校生になると、小生意気な文学少女気取りの小娘にとって、白樺やトロイカ、革命、ボルシェビキ、という語彙が、とてもロマンティックな響きとなって、ロシア文学に興味を持つようになり、意味も分からず、トルストイの字面を追い、ドストエフスキーの字面にしたり顔の裏、その難解さに困惑すし、アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィに至っては、もう小脇にぶら下がる木綿のトートバックに入ったままという日々を過ごしていたのである。
ある種の、三田誠広状態だったかも。
そのような背景を過ごして後、あの70年前後の熱気にも、もう冷めた(覚めた、かな?)頃、『赤露の人質日記』を読んだのだった。
読み初めて、それは、とても衝撃的だった。
鉛筆で記された日付を見ると、「1976年、12月吹雪」と記してあるので、初版が出版されてすぐに購入したようだ。
セルゲイ・エリーセエフは、ロシア帝政にあって、とてつもない冨と権力を有したブルジュアジーだった。セルゲイはフランスに留学し、そこで新村出に出会い、日本学に興味を抱く。
そして東大初の正式な海外留学生第一号となった。
彼は、一心不乱に勉学に励み、漱石と出会い、木曜会の仲間となる。
勉学の徒、セルゲイは、東大を卒業し、ロシアに帰国する。
そして、彼は、ロシア革命に翻弄されることになる。
彼の家系というか彼自身も革命を支持するのだが、革命というものは、おおよそ文学的思考と無縁な、政治の世界の出来事である。
それは、無情であり、非情だ。
革命家たちは、支援し資金まで援助したエリセーエフ家を否定し、追尾の手を緩めることはなかった。
セルゲイ・エリーセエフの人生は、それからというもの流転の日々となる。
しかし彼が東大で学び、漱石の元で会得した日本学が、彼をアメリカのハーバード大学へと導く。
先の大戦の、東京空襲で、神田古書街が、焼夷弾攻撃を免れたのは、アメリカ政府へのセルゲイ・エリーセエフの進言があったからだという伝説がある。
神田古書街の店主たちは、「エリセーエフとか言う人が、ここは焼いてはいけないと、大統領に進言したらしい」と、言っているのを、私も聞いた。
この神田古書街に伝えられているエリセーエフの進言というのは、実は、事実無根かも知れない。
しかし、エリーセエフとは、何者か判らないにもかかわらず、このように、エリセーエフという、その名前が語られることにこそ、意味があり、その事実に、私は心惹かれてしまう。
アメリカのジャパノロジーの礎となった人である。
セルゲイ・エリーセエフは、どうにも偏屈な性格になったらしい。
この写真をみると、そうだろうなー、と思う。
偏屈になって、当然だよなーと、思う。
そんな人生だったのだと、思う。
だから、私は、そんな白系露人セルゲイ・エリーセエフを今も忘れない。
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