帯を外してみた。 表紙のカバーを取ってみた。
読み終わってから、なぜかこの本の姿が知りたくなったのだ。
なんとシンプルで美しい装丁だろう。
決して月が満ちることがないという世界で起きる物語である。
容姿に多少の差違はあるが、ほぼ同じ言語を話す人たちが、一方は森林地帯で、もう一方は平野部で長い歴史の中暮らしてきた民族がある。
それぞれの持つ特徴を活かしながら、補いながら生活をしてきたという歴史を共有しているのである。
それが、日々に市民の自由な意識が、一方の国家権力によってコントロールされていく空気感が漂い始める。
同じ言語の構造を持つのだから、先祖は同一であるはずなのに、市民にはどうにも抗しがたい民族戦争が勃発していく。
日に日に、ファシズムが台頭し、でっげあげの神話まで作ってしまう。
このあたり、明治維新以降の、中央政権化した新政府日本が、富国強兵というファシズムと、京都の片隅にそっと生きてきた天皇を東京へ引っ張りだして明治天皇は神であるというような「神話」を作り、やがて第二次世界大戦時には、昭和天皇は現人神にまで、なっていた。
私の、当時女学生だった母は、天皇は現人神(生き神と称さないところが、なかなか語彙力がある方が、政府にいたんですね)だと信じていたというのだ。
神風は吹くと、本当に信じていたのだという。
まさに軍国少女である。
「神話」は民族のアイデンティテイだから、案外バカにできない。結構人は信じてしまうものだ。現代の北朝鮮がそうだと思う。
このあさのあつこが描いた物語について書かれている書評をいくつか読むと、現代のISの問題を喚起する人もいれば、未来の日本の姿を想像する人もいる。
私は、具体的な国際的なできごとをモデルにしているのではなく、前世紀中盤から今世紀に勃発している国際的な問題をかなり象徴的に普遍的に描かれている物語だと思った。
私は、ベルリンの壁が壊されて、東欧の社会主義国家が崩壊して行った時、この先には、民主主義で平和で、共に協調し合う社会が訪れると、本当に嬉々として期待しものだった。
その嬉々とした期待が、あっという間に、幻想だったのか思ったのへ、ユーゴスラビアの起きた民族紛争だった。
たった今まで、民族も宗教も異なる3つの民族が、互いに近所同士で、友情も婚姻も成立してくらしていたのだ。
しかもサラエボで冬季オリンピックまで行ったのに。
私にとって、このボスニア・ヘルツコビアの戦争は、相当のショックがあった。
まずひとつ目の理由は、サラエボから札幌へ留学している女子学生を知っていて、彼女は帰国もできずもう、どうよいかわからないという途方に暮れた状況を知っているということがある。
ふたつ目に、この戦争の理由が、確固たる根拠が分からないということだった。
それが、あっというまに、銃を持ち、近隣同士を殺し合う民族戦争が起きたのだ。
私は、いまでも、この民族戦争について考える。
多分、民族とはなにかと、考え続けるようになったきっかけでもあった。
この無常なことが、不条理なことが、起きるのかと思った。
戦争には、それが勃発する理由があると思っていた。
そんな理由が明確になくても戦争ってものは、起きるのか。
そんな思いを持っていながらも、なにやらかにやら、ブラブラと中途半端に生きてきた、私に、鬼の棍棒みたいなもので殴られたようなきがしたのが、あさのあつこの『ぼくがきみをころすまで』である。
アフガンでも少年兵が闘い、
イクラでも、
シリアでも、
ISは、誘拐までして、少年兵をつくりあげ最前線で闘っている。
あさのは、一人のL(エル)と記号で呼ばれる19歳の兵士が捕虜になり、明日、処刑されるという日に、敵方の哨兵に、己の生きてきた短い時間を語るという手法で、物語を展開されてゆく。
Lと哨兵の間に、僅かでも心の交流が生じる。
Lは、明日、処刑されるのだ。
でも、哨兵の心に確実に残したものがあるんではないか。
それは、絶望のなかの、一条の希望というものにはならないだろうか。
もしかしたら、Lの処刑寸前に、Lがエルシアと呼ばれていたときの、親友ファルド(今は敵とされているが)が助けに来るかも知れない、なってことを考えながら、私は読んでしまう。
人の運命なんか、まっったく分からないものだから。
私の知り合いの叔父さんだったか、モンテルパまで戦争犯罪人として連れて行かれて、それこそ、明日死刑という日に、助かったという人があり。
もう一人Kと呼ばれる少年も描かれている。
彼については、明日、書きたい。
Kの物語には、かつて中国で吹き荒れた文化大革命を想起した。
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