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【#文春オンライン】「韓国が善」であるために「日本は悪くなければならない」という発想の言語的背景

2020-07-07 02:39:30 | コラム
 私たち日本人にとって敬語とは対話の相手への礼儀の一種であり、社会的な「身分」の標識というよりも自身の敬意を表明するためのツールだといえるだろう。日本語の敬語は他人との関係性を規定する表現ではあるが、誰にどのような言葉遣いをするかは時と場合によって相対的に変化する。

 生粋の韓国人として日韓の文化を比較する著作家・シンシアリーによれば、韓国語の敬語はシステムとして崩壊しているという。 『「高文脈文化」日本の行間~韓国人による日韓比較論~』 (扶桑社)より、一部を引用する。

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他人を下待したくて仕方のない人の量産
 無理して明るく書いてみますと、韓国語の敬語システム崩壊パターン、その一!「他人を下待(ハデ)したくて仕方のない人の量産」……の巻、です。ここでも、良き参考になりうる専門家の見解を一つ紹介しましょう。

 以前は、韓国内でも、新聞でもテレビニュースでも、大学教授の書いた本にもちょっとエロい表紙の週刊誌にも、韓国社会の様々な問題を指摘する声が載っていました。韓国人が「ウリ(私たち)」と「ナム(他人、ウリ以外)」を極端に分けて考える問題、思わしくない自分の立場を他人のせいにするために「私の正当な権利を、不当な手段を使った誰かに奪われたからだ」と考える恨(ハン)の問題などなど、保守かリベラルかに関係なく、親日も反日も関係なく、韓国社会の捨てるべき問題、言わば本当の意味での積弊、社会に積もった弊害を何とかすべきだとの指摘が、盛り上がっていたのです。

 あれは、私が思う韓国社会の問題点と一致する内容が多く、大変興味深いものでした。例えば、漢方医コミュニティーを中心に、恨に対して医学的なアプローチを試みる人たちもいましたし、中央大学校の故チェ・サンジン教授のチームなど、「ウリ」関連の論文や書籍を積極的に発表するグループもありました。

国への批判が、民族への批判と混同される
 それらは、私がシンシアリーとして書いてきた韓国社会の問題点においても、本当に素晴らしいレファランス(参考資料)でした。ですが、残念ながら、最近、そういう資料を見つけるのは容易ではありません。

 いつからこんな話が「社会通念的に」タブー視されるようになったかは不確かですが、個人的に、2002年ワールドカップで韓国チームがベスト・フォーに進出したときから、「韓国への批判」が「悪いこと」というレッテルを貼られるようになったと見ています。本当はもっと多くの事案が複雑に絡まっているでしょうが、大まかなタイミングが、そう感じられます。

 ちょうど、2002年は親・北朝鮮思想の強い金大中(キムデジュン)政権、韓国で言う「左派政権」の頃で、社会全体が、韓国たる国という側面より、韓民族(朝鮮民族)たる民族という側面を強調するようになっていました。

 余談ですが、これは北朝鮮への敵意を弱め、民族の完成である「南北統一」を扇動する効果があります。韓国という社会(国)に対する批判が、民族という聖域への批判と受け止められるようになったわけです。

 それに、当時はネットの普及により、「私たちは優秀な民族だ」とする根拠に乏しい歴史観が急激に広がっていました。2002年ワールドカップでのベスト・フォー進出は、韓国人は優秀だとする社会観の、ある種の論拠であり、象徴だったわけです。サッカーとは関係ない、と言ってしまえばそれまでですが、韓国人が主張する「優秀さ」は全般的なものではなく、いくつかの「点(ポイント)」によるものだったりします。例えば、「キム・ヨナ選手が韓国人の優秀さを証明したから、もうフィギュアスケートはどうでもいい」という流れになります。

韓国社会の「甲乙横暴の文化」
 いずれにせよ、最近は「これだから韓国人は~」という類の批判をすると、「日本は韓民族の気概を恐れている」「韓民族に対する悪口は日本が広げたデマ」などのとんでもない歴史観を盲信する人たちから、「韓民族の優秀さを歪曲するための主張だ。こいつはきっと日本人だ」と袋叩きにされる流れになりがちです。最近は、「土着倭寇(韓国に住み着いた日本人)」という蔑称が流行っています。

 そんな中、あまり大手でないところ、例えばローカルメディアから、興味深い韓国社会への問題提起、及びその考察が手に入ることが増えました。

 ここで紹介するのもその一つで、2018年5月30日、『大田トゥデイ』というローカル紙に載っている、慶熙大学社会学部ソン・ジェリョン教授の寄稿文からの引用となります。

韓国人が権威・序列に執着する理由と背景
<(※韓国の「上の人が下の人を苦しめる文化」のルーツを、急激で受動的な韓国社会の資本主義化から探ろうとする人たちもいる、という話の後に)……しかし、歴史的に、韓国の甲乙(カブル文化、上の人が下の人を苦しめる文化の根は、それよりもはるかに深い。長く書くこともできそうにないが、何よりも、その根は儒教の「等級付け」的な倫理規範に基づいた、形式主義・位階権威主義の文化にあると言える……。

 ……「文化」として定着した社会の流れ、社会の傾向は、社会に深く浸透し、非常に強く作用するため、いくら経済が発展しても、制度的に民主化が行われたとしても、その傾向と、社会がその傾向に依存しようとする力は、弱くなったりしない。この文化的傾向は、今日の私たち韓国人が、なぜこれほどまでに権威と権力、すなわち力の優劣と序列、及びそれに関連する文化的資本の獲得に強迫的に執着しているのか、その理由と背景を、教えてくれる。

韓国社会は「侮蔑感の社会」?
 韓国学の研究者チェ・ボンヨンは、このような差別・位階文化の土台から、世界的に見てもユニークな尊・卑の言語システムが、韓国社会で発展したと言う。私たちはいつも、「尊待」か、「下待」かの、二択だけの極端な選択を強要されており、誰もが、尊待されるため、命をかけて、権力、出世、学歴、権威にぶら下がるというのだ。よって、私たちは、他人を自分と「同等」な人格として見ない傾向に慣れている。

 知らず知らずに、私たちは、自分自身を、自分より地位が低い他人と区別することによって、私は他人よりも優れていると示そうとする。差別の誇示を通じて、等級分けを作ろうとするのだ。すなわち、位階的に優れた「私」を証明し、それを堅持するために、地位の低い人たちを無視し、見下し、罵り、低俗な言葉を吐き出すのだ。

 社会学者キム・チャンホは、無視と軽蔑と嘲笑の文化が、韓国人の日常を支配しているという点で、韓国社会を「侮蔑感の社会」と規定する。

侮蔑感をやりとりしながら生きていく
 この侮蔑感の社会では、自分自身が侮蔑されないためには、誰かを侮蔑しなければならないという、自己矛盾、言うならば「侮蔑の政治学」が日常的に動き出す。どんな組織や集団でも、人の集まりである限り、軽重の差はあるものの、その侮蔑感をやり取りしながら生きて行くということだ。

 上の立場の人が下の立場の人を苦しめる甲乙の横暴は、このような韓国社会の位階・差別文化の集合的傾向性を反映して表われたものだ。韓国人なら誰もが、韓国社会の文化的傾向の力から自由にはなれない。しかし、社会の文化的傾向が容易に変わらないという点で、私たちの社会の「甲乙横暴の文化」もまた、そう簡単に消えるものではないという点を、知らなくてはならない。それは、制度を変えれば無くなるようなものではないのだ……>

 韓国社会の上下関係へのこだわりは、ちゃんと理解するのが難しいし、理解出来たら出来たで人間としての何かが壊れてしまいそうな気もします。

「他人を下にする」ことと、「私が上になる」ことが同一視
 こういう人を仮定してみましょう。自分のことをどうしても偉いと誇示したい、とても虚しい人。でも、これといって偉いと証明できるものがありません。というか、そういう人に限って、人の「価値」というものをろくに考えていなかったりします。

 先に紹介したキム・ジへ教授の「バンマル、彼らの身分社会」で、他人より勝るのが年齢だけの人たちであればあるほど、相手の年齢を気にするという趣旨の内容がありましたが、それもまた、同じ問題を指摘していると言えましょう。

 だから、「私は偉い」の根拠の代わりに、他の誰かが「私より卑しい」の根拠を見つけようとするのです。いいや、根拠を見つけるというより、作ろうとする、と書いたほうがもっと適切でしょう。

 実は、事例にもよりますが、いじめ問題などにも、似たような側面があります。加害者は、自分より弱い被害者が惨めになればなるほど、自分の価値が上がると勘違いをしています。そして、その被害者が状況を改善するために努力し、立ち直ろうとすると、加害者は恐れをなし、さらに被害者を苦しめます。被害者が立ち直ると、自分(加害者)の価値が下がると思い込んでいるからです。

いじめ問題にも見られる侮蔑の論理
 そのために暴力を用いることもありますが、さすがに日常レベルで使うのは、暴力や何かの策略ではありません。言語です。自分と相手が同時に理解できる、ずっと前からその社会の文化と同居してきた、言語です。加害者は、被害者に常にこう言い聞かせます。「お前はダメなやつだ。お前はダメなやつだ。お前はダメなやつだ」。

「お前はダメなやつだ」というより、実は、「ダメなやつでなければならない」という意味に近いでしょう。そうでないと、自分の階級が下がると思い込んでいるからです。

 ソン・ジェリョン教授の寄稿文で指摘している、韓国社会の「侮蔑のやり取り」もまた、「他人を下にする」ことと、「私が上になる」ことが同一視されているからこそ、成立します。他人を下にするもっとも一般的な表れが、相手に侮蔑を与えること、すなわち「下待」することです。そして、それこそが、自分が「上になる(尊待される)」と同じことになってしまったのです。

「日本に併合されたおかげで近代化できた」はタブー
 米国の政治学者デイヴィッド・イーストン氏は、著書『政治体系-政治学の状態への探究』にて、政治とは「社会に必要な価値の権威的配分」だと定義しました。社会で一般的に必要とされるけれど、社会構成員全員分を満たすには足りない様々な価値を、権威的に割り当てる行為が政治である、と。「尊」と「蔑」がコインの裏表のようになっている社会では、尊待が「社会が望んでいるけど全員分は存在しない価値」であると同時に、なんと、「侮蔑」もその価値の一つになります。なぜなら、侮蔑することで尊待されると信じられているからです。

 全員に行き渡るはずの無い価値を、侮蔑をばら撒いて求めている社会。侮蔑されないためには侮蔑しないといけない社会。それが、どれだけ疲れることか。そういえば、私もそんな空間の中に長らくいたせいか、似たような感覚を何度も経験しました。以前にも、ブログに「韓国社会には、『誰かを悪いと叫んでいるから私は悪くない』とする心理がある」と書いたことがあります。いま思えば、それも寄稿文で紹介されている見解と、ほぼ同じ意味の嘆きでした。

「韓国が善」であるために「日本は悪くないといけない」
 韓国社会は儒教思想が強く残っているため、ここでいう「上下」が、「善悪」として表現されることもあります。韓国の国是、または国技(?)とも言える「反日思想」ですが、これは日本を「絶対悪」とすることで韓国が「絶対善」になる構図の歴史観です。あと少しで韓国(朝鮮)が自力で近代化できたはずなのに、日本の植民地にされた(実は併合されただけですが)せいで、台無しになってしまった、などなどです。

 でも、この歴史観は、「韓国(朝鮮)が何か褒められるに相応することをやったのか」という側面が完全に欠けています。「日本が責められるに相応することをやりまくった」を主張することで、その欠けた部分を覆い隠し、全てを正当化しようとします。だから、「日本に併合されたおかげで近代化できた」とする意見すらも、韓国ではタブーとされています。日本に併合されたのは「悪いこと」で、近代化は「良いこと」なのに、それが両立するはずがない、あってはならない、というのです。

 なぜなら、それが両立してしまうと、「韓国は自力では近代化できる国ではなかった」という客観的な歴史が姿を表すからです。先に、相手を罵ることで自分の格が上がるとする内容で、イジメ加害者の話をしましたが、反日思想もまた「日本が悪い(下)」から「韓国が良い(上)」の構図を無理矢理作るためのものであり、日本は悪いというより、「日本は悪くないといけない」に近い領域にまで達しています。

シンシアリー


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