Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

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中国、リアルタイムで歴史改ざん中【尖閣文書発見】

2012-12-25 | 近代中国の出版物
中国外交文書「尖閣は琉球の一部」…記者会見録から関連部分カット(2012/12/29 サーチナ)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=1228&f=politics_1228_006.shtml

 時事通信社は27日付で、中国(中華人民共和国)が1950年、「尖閣諸島は琉球(沖縄)に含まれるとする外交関連文書を作成していたと報じた。同日、北京市内で行われた中国政府・外交部の定例記者会見では同件についての質問が出たが、華春瑩報道官は「よく分からない」などとして直接の回答を避けた。外交部はホームページに掲載した定例記者会見の記録で、関連部分を削除した。

  これまでも、中国が1971年に初めて「釣魚島(尖閣諸島の中国側通称)は中国領」と主張する以前に、共産党機関紙の人民日報や、中国国営・地図出版社(当時)が「尖閣諸島は日本領」と解釈できる文章や図を掲載したことがあったが、政府文書において「尖閣諸島は日本領」との記述が見つかったのは初めて。





  「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」と題する文書で、「尖閣諸島を台湾に組み込むべきかどうか検討の必要がある」と記述した。

  中国政府は、「台湾は中国の一部」、「釣魚島は台湾の一部」、「日本は第二次世界大戦の敗戦の結果、台湾本島などと同様に釣魚島も中国に返還して当然」と主張している。中国政府の公的文書に「尖閣諸島は琉球の一部」との記述があれば、中国側の論法が崩れたことになる。

  中国外交部が27日に行った定例記者会見では、同公文書の問題について質問が出た。華春瑩報道官は「報道の状況がよく分からない」と述べた上で、尖閣諸島について「中国の主権は歴史的にも法的にも十分な根拠がある」と主張した。

  中国外交部は記者会見の様子をホームページ上で公開しているが、同日の定例記者会見で、「尖閣諸島にかんする質疑応答」の部分は掲載しなかった。

  中国外交部は、週2回の定例記者会見の様子を公式サイトで掲載している。主に国内向けの情報公開の一環だが、“微妙な問題”では削除する場合がある。

  2010年4月6日の記者会見では、麻薬密輸罪で死刑が確定していた赤野光信死刑囚(65歳)に対する刑執行にかんする質疑応答を、09年6月2日の記者会見では、発生後10年を迎える「天安門事件(89年6月4日)」にかんする問答を削除した。02年の日本総領事館に北朝鮮から脱出した家族(脱北家族)が駆け込んだ事件や、08年の「毒ギョーザ事件」でも、情報を掲載しなかった。(編集担当:如月隼人)

突然動き始めた国境線

2012-11-28 | 近代中国の出版物
海底資源が発見された1969年を境に、
まるで生き物のように、国境線が突然動き始めた!


1965年10月「世界地図集」琉球台湾図



        

ところが、1969年に地下資源が発見され、蒋介石が尖閣の領有権を主張し始めると、
とたんに国境線の位置が動き始めている。




大きく改ざんされている尖閣付近を見てみよう。


国境線が、まるで生き物のように大きく向きを変えるとともに、尖閣諸島まで伸びている。



    ↓↓↓

尖閣諸島と八重山群島の間に、国境線が引かれている!



名称も、「尖閣群島」から「釣魚台列嶼」に変わっている。



それまで一度も、台湾の地図に尖閣諸島が描かれたことはなかったが、
突然、学校の教科書では、台湾の地図の左下に「釣魚台列嶼」の地図が付け加えられるようになった。





台湾の領海を示す緯度と経度も、いつのまにか書き換えられている。


1970年発行の『台湾省通志巻一土地志疆域篇』には、台湾の北限は「彭佳嶼」であると記載されている。


ところが、1989年発行の『重修臺灣省通志卷二土地志轄境篇』では、国境の緯度と経度が変わり、これまで台湾の北限は「彭佳嶼」とされていたものが、尖閣諸島が台湾の領土に勝手に書き換えられている。


1989年《重修臺灣省通志卷二土地志轄境篇》





1970年版では…

極東…東経122度6分25秒
極西…東経119度18分3秒
極南…北緯21度45分25秒
極北…北緯25度37分53秒

1989年版では…
極東境…宜蘭県●●●赤尾嶼東● 東経124度34分9秒
極西境…澎湖●安●花嶼西● 東経119度18分3秒
極南境…●●●北緯21度45分25秒
極北境…宜蘭県●●黄尾嶼北● 北緯25度56分21秒

1970年まではどの地図・書籍も「台湾の北限は彭佳嶼」と記載

2012-11-28 | 近代中国の出版物
11月台灣省政府編印之「台灣省地方自治誌要」將台灣省極北界定為彭佳嶼,所附地圖無釣魚台。

1967年,中國發行台灣地圖。






1968年10月 台湾作成の「中華民国年鑑」では、台湾の最北端は彭佳嶼となっている。
(尖閣諸島は、彭佳嶼のはるか東北に位置するので、台湾の領土ではない)

1968年10月台灣印行的「中華民國年鑑」也以台灣極北為彭佳嶼.







1969年の中華人民共和国国家測量製図総局が発行した地図では、「尖閣群島」と表示されている。
1969年中華人民共和國國家測繪總局發行的地圖以尖閣群島標示釣魚台








1970年発行の『台湾省通志巻一土地志疆域篇』には、台湾の北限は「彭佳嶼」であると記載されている。

1970年《臺灣省通志卷一土地志疆域篇》記載台灣極北為彭佳嶼




『台湾省統計要覧』(1946~1971)にも、やはり台湾の北限は「彭佳嶼」との記載がある。

《臺灣省統計要覽》於 1946 年發行第一期,至 1971 年發行第三十期 (下圖)。以彭佳嶼為極北。





このように、1970年までは、台湾が発行した文献も、中国が発行した文献も
いずれも「台湾の北限は彭佳嶼である」と記載されている。
尖閣諸島を記載した地図や文献は見当たらない。

それが突然変わるのは、1971年からである。



書き換えられた中学教科書

2012-11-28 | 近代中国の出版物
1970以前の台湾は、国民中学の地理の教科書で、釣魚島を琉球の領域に記し、名称も「尖閣群島」という日本名を使っていた。
台湾の地図には、釣魚島はなかった。

1970年以前台灣國立編譯館編印之國民中學地理教科書將釣魚台劃入琉球,名稱也使用尖閣群島. 台灣地圖無釣魚台。



下は1958年の地理補充教材。台湾の北限は彭佳嶼となっている。

1958年地理補充教材指出台灣北端是彭佳嶼




地理の教科書に、琉球群島の位置が緯度で示されているが、明確に琉球群島の中に尖閣諸島が含まれている。

民國51年 初中地理45頁中,琉球群島位置為北緯24度到30度 東經122度半到131度之間,經緯度明確包含釣魚台。






<書き換えられた中華民国の中学地理教科書>


【為啥保釣】

百年來,中國從來沒有向釣魚台進行過任何統治行為,甚至於連宣稱釣魚台是中國領土這麼基本的事都沒幹過,根本忘了世界上還有這個地方。直到一九六九年五月,聯合國遠東經濟委員會發表探勘調查結果,指出釣魚台周邊海底可能埋藏大量石油及天然氣。蔣介石才開始主張釣魚台是中國固有領土,並且竄改地圖。



【なぜ領土返還運動をするのか】

百年来、中国はこれまで魚釣島に対して、いかなる統治行為を行ったこともない。
ここにきて「釣魚島は中国の領土」というが、世界上にそんな土地があったことも忘れていたはずだ。
1969年5月、連合国遠東経済委員会が、海底調査の結果を発表し、尖閣諸島の近海に豊富な海底資源が埋蔵されていると指摘した。
蒋介石は、その時から急に「釣魚島は我が固有の領土」と主張し始め、地図まで勝手に書き換え始めた。




1970年版
国境線は、明らかに尖閣諸島を日本領土としてあらわし、
最大の島は「魚釣島」と日本名で表記している。



(拡大)





1971年版
国境線の向きが、突然変化し、「尖閣群島」から「釣魚台列嶼」に、
「魚釣島」は「釣魚台」と表記が変わっている。





1972年版
台湾と沖縄の間の国境線が、突然消滅している。
以後、この地図が台湾の中学教科書では使用されることとなる。


世界地図集第一冊 東亜諸国(1965年)

2012-11-28 | 近代中国の出版物
台湾国防研究院と中国地理学研究所が共同で出版した『世界地図集第一冊 東亜諸国』(1965年10月版)には、釣魚島列島(尖閣諸島)は琉球の領土として描かれている。
国境線は、魚釣島と台湾の中間に、しっかりと引かれている。
その表記も、日本名の「尖閣群島」と記されている。

尖閣諸島を日本領と認識していたことが、はっきりわかる。

1965年10月台灣國防研究院與中國地理學研究所合編出版的世界地圖集第一冊東亞諸國,將釣魚台列嶼畫為琉球領土,並寫成尖閣群島。






(以下、「尖閣諸島は日本固有の領土である」茂木弘道:著 より一部転載)


『世界地図集第一冊 東亜諸国』(1965年版)は、中華民国(台湾)が1965年と尖閣問題が起こる5年ほど前に出した地図である。共産国家ではないが、この地図は「国防研究院」と「中国地学研究所」の共同出版ということなので、明確に国家の方針が表現された地図ということになる。

台湾と日本との国境線が、尖閣諸島と台湾との間にも伸びている。
また、「魚釣島」「尖閣群島」という日本名が使われている。(台湾名では「釣魚台」「釣魚台列嶼」)














1955~1962の中国・台湾の地図

2012-11-28 | 近代中国の出版物


1955年 台灣公文書中將釣魚台標示為琉球群島的一部分

台湾当局が1955年に発行した公文書の中で、釣魚島を琉球群島の一部分と表記している。

日本名  中国名  面積(平方キロ)
魚釣島  釣魚台  3.82
久場島  黄尾嶼  0.90
大正島  赤尾嶼  0.06
北小島  北小島  0.31
南小島  南小島  0.40
沖の北岩 沖の北岩 0.05
沖の南岩 沖の南岩 0.02
飛瀬   飛瀬   0.01




1958年11月 北京地図出版社発行の地図には、釣魚島を日本の領土内に描き、しかも「魚釣島」「尖閣群島」という日本名で表示している。

1958年11月北京地圖出版社編輯部編印的地圖「日本之部」,將釣魚台劃入日本領土之內,並以尖閣群島標示。


「世界地図集」(北京市地図出版社)1958年

同じ年に中国で発行された台湾の地図には、尖閣諸島は含まれていない。

同年中國發行的台灣地圖




つまり、1958年時点で中国は、尖閣諸島は台湾に属するのではなく、日本の領土と認識していたことになる。


1959年、商務印書館が出版、新華書店北京発行所が発行した『台湾地理』は、中学校の補助教材として使われた本。
「全区島嶼の分布 最も東は台湾本島の東北にある棉花嶼という島、最北は台湾本島の東北に位置する彭佳嶼という島」「尖閣諸島は琉球群島の内側」との記載がある。

下の画像は中国で発行された1959年版の「台湾地理」だが、この前年、1958年に中華民国(台湾)で発行された『台湾地理』にも、まったく同じ記述がみられる。

1959年商務印書館出版、新華書店北京發行所發行《台灣地理》(作者吳壯達):「全區島嶼的分布,最東,是本島東北的棉花嶼,……最北,是本島東北的彭佳嶼,地距瑞芳鎮的鼻頭角約五十六公里,與琉球群島內側的尖閣諸島遙對」。





1960年、中華民国内政部製作の《台湾省5市16県詳細図》には、台湾付属の76の島が明記されているが、台湾の島は北緯21度45分25秒(恒春七星岩)から25度38分(基隆彭佳嶼)までであるとし、尖閣諸島はこの領域に含まれない。

1960年,中華民國內政部製作《台灣省5市16縣詳圖》,明記台灣附屬島嶼七十六座,分佈範圍從恆春七星岩到基隆彭佳嶼,未記載釣魚臺。


1960年4月、北京地図出版社発行『世界地図集』第1版 で、日本の部分を見ると、釣魚島は日本の領土として描かれている。

4月,北京地圖出版社發行《世界地圖集》第一版的日本地圖仍將釣魚台劃給日本




1961年、中華書局出版が歴史学者向けに出版した『雨種海道針路』の中の、釣魚嶼の項目では、釣魚嶼は台湾の基隆から琉球へ渡る途中にある尖閣群島の中の一つの島であり、その名を魚釣島というが、釣魚島ともいう、とある。

1961年中華書局出版由歷史學者向達著作的《兩種海道針經》,其中之「釣魚嶼」項目:「釣魚嶼為自台灣基隆至琉球途中尖閣羣島之一島,今名魚釣島,亦名釣魚島」




1962年北京地圖出版社發行臺灣地圖

1962年 北京地図出版社発行の台湾地図


「魚釣島は日本のもの」と報じた人民日報

2012-11-28 | 近代中国の出版物
1953年1月8日中共人民日報,在刊載的(琉球群島人民反對美國占領的鬥爭)專文中清楚的寫著(琉群島包括尖閣諸島)

1953年1月8日の人民日報「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」の記事中、琉球諸島の説明において、尖閣諸島を琉球の一部と記載している。



中共の「悪夢」は、すでに一つ、現実のものとなっているが、それはどちらかというと滑稽で恥ずべき悪夢である。
『人民日報』がかつて発表した、釣魚島に関する2篇の文章が引っ張り出されてきて、すぐにネット上を駆け巡ったのである。

まず、1953年1月8日に発表された『アメリカの占領に反対する琉球群島人民の闘争』と題する一文であるが、その文章は次のようになっている。

琉球群島は、我が国の台湾北東部と日本の九州南西部の間の海上に点在し、尖閣諸島を含んでいる。琉球人民は、アメリカが琉球を軍事基地にすることに反対している……」

この文章の肝心な点は、中国が尖閣諸島を琉球群島に属するものと認めていることが、はっきり示されていることである。しかも、1972年にアメリカは琉球群島を日本に「返還」したが、中国は異議を唱えなかった。つまり、間接的に尖閣諸島が日本に属することを認めているのである。

その『人民日報』には発行年月日が明記されているにもかかわらず、「愛国的な」怒れる若者の中には、それが本物であることを信じようとしないか、あるいはまた『環球時報』が掲載している文章のように、かたくなに抗弁する者もいる。

8月18日、歴史家の李桂枝は『騰訊ミニブログ』に、「釣魚島に関する人民日報の声明の出処」と題するブログを発表し、その後さらに一歩進んでネット上に、「『新華月報(1953年)』に見える」ものとして、『アメリカの占領に反対する琉球群島人民の闘争』という一文の出処を公表している。

(中略)

『人民日報』が報じている、釣魚島の帰属問題に関して、かつて中共が抱いていた上述のような驚くべき観点は、ネット上で人々の注目と熱い論議を呼び起こした。

8月17日、北京の著名な学者・呉祚来が真っ先にミニブログを発表し、「歴史学者の皆さんにお尋ねするが、人民日報が伝えたことで、当時、何か問題が起こっただろうか。もし問題が起こったとすれば、その問題は大きくなっていき、それが原因で毛沢東のファンたちに甚大な数の死傷者が出たはずではないか」と述べた。

呉祚来が『新浪微博』に投稿したこの文章を転載したり論評した人は、その日のうちに1万8,000人近くに達した。

『法制情報ネット』の「編集者の言葉」は、「釣魚島はいったい誰のものなのか? この『人民日報』の文章を読むと、中国人は誰もぐうの音も出なくなる」と記している。

ネットユーザーは「かつては手をこまねいていて、釣魚島を人に譲っておいて、今度は馬鹿な民衆を煽ってそれを返させようとしている」と言っている。

(中略)

ネットユーザーは口をそろえて、「証拠は確実で動かしがたい! これは許されざる売国の罪だ」と言って『人民日報』を糾弾している。
そしてネットユーザーたちは皮肉な調子で、「『人民日報』はかつて発行した新聞をすべて廃棄し、発行し直すべきだ。さもないと、かつて犯した、似たような大きなミスが次々に明かされ、厚顔無恥ぶりが暴露されるのではないか。それは調和社会にふさわしくないことなのではないか!」と提案している。

専門家も民間人も、多くの人が憤りとともに、「何のことはない、政府は初めからずっと無知な民衆を踊らせ、馬鹿にしていたのか」と言っている。そして人々は、誰が本当の売国奴なのかを知ったのである!

多くのネットユーザーは、保釣運動家はまず五星紅旗や青天白日旗を『人民日報』本社に立てに行くべきだ、そうでなければつじつまが合わない、と提言している。

(以上、鳴霞「月刊中国」125号(2012年11月1日号)、メルマガ 鳴霞の「週刊中国」創刊号より転載)

1947~1954年の中国・台湾の地図

2012-11-27 | 近代中国の出版物
1947年、1948年の台湾の地図には、魚釣島は記載されていない。


1947年臺灣地圖沒釣魚台





1948年中國亞光輿地學社台灣地圖




1951年、台湾省文献委員会が編纂した『台湾省通志稿』では、「台湾の最北端は彭佳嶼」と記載されている。
1951年,台灣省文獻委員會編輯《台灣省通志稿》,記載台灣省最北端為彭佳嶼。






中国史地図表編纂社金立煌発行の『台湾分県詳図』にも、釣魚台の記載はない。

中國史地圖表編纂社 金立煌發行的臺灣分縣詳圖無釣魚台





光華輿地学社編纂の『中華人民共和国新地図台湾省』にも、魚釣島は記載されていない。

光華輿地學社編制中華人民共和國新地圖台灣省





これは、1950年代初期に中国農村青年社から発行された『印贈的台湾地図』。
やはり魚釣島は記載されていない。

50年代初期中國農村青年社印贈的台灣地圖






下は、1952年に中国の小学校5・6年生で使われていた地理の教科書である。
台湾の地図に、魚釣島は記載されていない。

1952年中國使用的高級小學 (五、六年級) 地理課本,台灣地圖無釣魚台。





中国亜光輿地学社発行の「中華人民共和国分省地図」にも、魚釣島は記載されていない。

中國亞光輿地學社發行中華人民共和國分省地圖沒釣魚台
中國亞光輿地學社發行中華人民共和國分省精圖台灣省





こちらは、1954年10月に遼寧人民出版社が出版した台湾の地図。やはり魚釣島は記載されていない。

1954年10月遼寧人民出版社出版的台灣地圖





中国中華書局が12月に発行した台湾省の地図。魚釣島は記載されていない。
中國中華書局於12月發行台灣省地圖








北京地圖出版社中華人民共和國分省地圖台灣省





結論:
1948年~1950年代の中国発行の地図では、台湾省に魚釣島はまったく含まれていない。
学校の地理の教科書にすら、記載されていない。
魚釣島が記載された台湾地図を見つけることができない。