【不願面對的真相】
對中國最大的致命傷是從來沒有對日本取得釣魚台的行為有任何異議,連最基本的抗議都沒有。而且還公開承認釣魚台屬於琉球:戰後也沒有主張釣魚台是中國的領土,要求日本歸還。
中国にとって致命傷は、日本が魚釣島を取得した時に、なんら異議をとなえなかったこと。基本的な抗議もしてこなかったことだ。
そればかりか、魚釣島は琉球の一部だと承認していた証拠がある。
戦後も魚釣島は中国領だと、中国は主張してこなかったのに、今になって日本に「魚釣島を返せ」と要求している。
古賀歿後其子古賀善次繼承為「島主」的翌年(1919)冬天,有一艘福建的漁船遭遇暴風雨漂流到釣魚島擱淺向島民求救。在古賀善次等人熱心營救之下,這艘遇難漁船「金合號」的船主兼船長郭合順等31名船員,半個月後被護送經由台灣平安回到福建。翌年(1920)5月,中華民國政府為了對於善意營救海難的義舉表示感謝,由駐長崎領事馮冕代表政府致贈感謝狀給古賀善次等七個人。感謝狀清清楚楚地寫明海難發生場所的釣魚島是「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」。感謝狀用中文寫的,全文如下:
古賀辰四郎なきあとは、その子息である古賀善次が後を継ぎ、魚釣島の主となっていた。
1919(大正8)年冬、福建省から出港した一隻の漁船が暴風雨のため漂流し、魚釣島に漂着して、住民に助けを求めた。
古賀善次らは熱心に彼らを介抱し、遭難漁船「金合号」の船長と船員31名は、半年後に台湾を経由して、無事に福建省に帰還することができた。
翌年、1920年5月、中華民国政府は古賀らの海難救助に感謝し、長崎領事が政府の代表として、古賀善次ら7名の住民に感謝状を贈った。
その感謝状には、海難が発生した場所である魚釣島を「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されている。
当時の石垣村の豊川善佐氏村長へ贈られた感謝状
石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)に贈られた感謝状
(石垣市立八重山博物館所蔵)
<感謝状原文>
感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,
飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)
承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,
洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。
中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日
(公印)(蓋在「9年」上)。
可參考:北京政府駐外使領人員年表(1912∼1928)
古賀善次氏の証言
(以下、『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁より転載)
(転載おわり)
感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日(公印)(蓋在「9年」上)。
對中國最大的致命傷是從來沒有對日本取得釣魚台的行為有任何異議,連最基本的抗議都沒有。而且還公開承認釣魚台屬於琉球:戰後也沒有主張釣魚台是中國的領土,要求日本歸還。
中国にとって致命傷は、日本が魚釣島を取得した時に、なんら異議をとなえなかったこと。基本的な抗議もしてこなかったことだ。
そればかりか、魚釣島は琉球の一部だと承認していた証拠がある。
戦後も魚釣島は中国領だと、中国は主張してこなかったのに、今になって日本に「魚釣島を返せ」と要求している。
古賀歿後其子古賀善次繼承為「島主」的翌年(1919)冬天,有一艘福建的漁船遭遇暴風雨漂流到釣魚島擱淺向島民求救。在古賀善次等人熱心營救之下,這艘遇難漁船「金合號」的船主兼船長郭合順等31名船員,半個月後被護送經由台灣平安回到福建。翌年(1920)5月,中華民國政府為了對於善意營救海難的義舉表示感謝,由駐長崎領事馮冕代表政府致贈感謝狀給古賀善次等七個人。感謝狀清清楚楚地寫明海難發生場所的釣魚島是「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」。感謝狀用中文寫的,全文如下:
古賀辰四郎なきあとは、その子息である古賀善次が後を継ぎ、魚釣島の主となっていた。
1919(大正8)年冬、福建省から出港した一隻の漁船が暴風雨のため漂流し、魚釣島に漂着して、住民に助けを求めた。
古賀善次らは熱心に彼らを介抱し、遭難漁船「金合号」の船長と船員31名は、半年後に台湾を経由して、無事に福建省に帰還することができた。
翌年、1920年5月、中華民国政府は古賀らの海難救助に感謝し、長崎領事が政府の代表として、古賀善次ら7名の住民に感謝状を贈った。
その感謝状には、海難が発生した場所である魚釣島を「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されている。
当時の石垣村の豊川善佐氏村長へ贈られた感謝状
石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)に贈られた感謝状
(石垣市立八重山博物館所蔵)
<感謝状原文>
感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,
飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)
承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,
洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。
中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日
(公印)(蓋在「9年」上)。
可參考:北京政府駐外使領人員年表(1912∼1928)
古賀善次氏の証言
(以下、『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁より転載)
魚釣島の所有者古賀善次氏は、
「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。
大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。
そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。
私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。
ええ、いまでも保存してありますよ。」
「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。
大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。
そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。
私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。
ええ、いまでも保存してありますよ。」
(転載おわり)
感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日(公印)(蓋在「9年」上)。