首先釣魚台和台灣根本沒有法理上的關係,日本也不是根據馬關條約取得釣魚台,證據就在馬關條約的簽訂的時間。日本是在1895年1月14日的日本內閣會議中把釣魚台納入國土,3個月後(4月17日)才和清國簽定馬關條約(你看,連證據這樣確鑿的東西都在說謊)
尖閣諸島は、1895年1月14日、閣議決定によって日本の領土に編入された。
中国は「尖閣諸島は下関条約によって、台湾を割譲された時、中国から切り離された」と主張しているが、日清講和条約(下関条約)の条文では、尖閣諸島については一切言及されていない。
それもそのはず、日本が尖閣諸島を日本領土に編入したのは、下関条約締結の3カ月も前であり、下関条約とは、一切無関係なのであるあ。
※下関条約とは…1895年4月17日に春帆楼(しゅんぱんろう)で締結された、日清戦争後の講和会議における条約である。正式名称は日清媾和条約。清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに当該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を日本に割与した。
日清講和条約第2条
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/f0/b1339294153290d8e52379354b3cfc03.jpg)
條約又指明兩國將按照此一條款,以及條約粘附的台灣地圖,另行劃定海界。該地圖由山吉盛義繪制,當中並不包括釣魚台。
下の地図は、下関条約締結時に取り交わされた地図である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/f4/bb88d884fd5ba1181b61cdbbac276356.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/c1/42a8f78f4c2bcb1a1a7735260adb0fc4.jpg)
當時負責與日本交接的清國代表是李經芳,雙方並簽有交接臺灣文據。李經芳對於日方所畫出的台灣附屬島嶼區域並未提出異議,還說交接〝均皆清楚〞為此兩帝國全權委員願立文據,即行署名蓋印,以照確實。光這份文件保釣人士就百口莫辯了,所以只能不停〝考古〞混淆視聽。
下関条約第5条に従い、1895年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、日本の水野弁理公使と清国の李経方全権委員との間で、台湾の附属諸島嶼の範囲について、次のようなやりとりがなされた。
李は、日本が後日、福建省付近に散在する島嶼を台湾附属島嶼と主張することを懸念し、「台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げる必要はないか」と尋ねた。
水野は、「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや、無名の島があった場合、日中いずれにも属さないことになり不都合である。台湾の所属島嶼は海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の「横はり」があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と主張することは決してない」と応答し、李も肯諾した。
另外兩個可能有爭議的島嶼是彭佳嶼、蘭嶼, 在日方與法國和西班牙確認後納入領土,1899年台灣總督府民政部文書課發行的台灣總督府第一統計書就以彭佳嶼(アギンコート島)為台灣極北,到此想拿馬關條約保釣已經不可能了。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/fb/eed30650d1c93a6463452deddee9aad0.jpg)
尖閣諸島は、1895年1月14日、閣議決定によって日本の領土に編入された。
中国は「尖閣諸島は下関条約によって、台湾を割譲された時、中国から切り離された」と主張しているが、日清講和条約(下関条約)の条文では、尖閣諸島については一切言及されていない。
それもそのはず、日本が尖閣諸島を日本領土に編入したのは、下関条約締結の3カ月も前であり、下関条約とは、一切無関係なのであるあ。
※下関条約とは…1895年4月17日に春帆楼(しゅんぱんろう)で締結された、日清戦争後の講和会議における条約である。正式名称は日清媾和条約。清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに当該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を日本に割与した。
日清講和条約第2条
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/f0/b1339294153290d8e52379354b3cfc03.jpg)
條約又指明兩國將按照此一條款,以及條約粘附的台灣地圖,另行劃定海界。該地圖由山吉盛義繪制,當中並不包括釣魚台。
下の地図は、下関条約締結時に取り交わされた地図である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/f4/bb88d884fd5ba1181b61cdbbac276356.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/c1/42a8f78f4c2bcb1a1a7735260adb0fc4.jpg)
當時負責與日本交接的清國代表是李經芳,雙方並簽有交接臺灣文據。李經芳對於日方所畫出的台灣附屬島嶼區域並未提出異議,還說交接〝均皆清楚〞為此兩帝國全權委員願立文據,即行署名蓋印,以照確實。光這份文件保釣人士就百口莫辯了,所以只能不停〝考古〞混淆視聽。
下関条約第5条に従い、1895年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、日本の水野弁理公使と清国の李経方全権委員との間で、台湾の附属諸島嶼の範囲について、次のようなやりとりがなされた。
李は、日本が後日、福建省付近に散在する島嶼を台湾附属島嶼と主張することを懸念し、「台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げる必要はないか」と尋ねた。
水野は、「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや、無名の島があった場合、日中いずれにも属さないことになり不都合である。台湾の所属島嶼は海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の「横はり」があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と主張することは決してない」と応答し、李も肯諾した。
另外兩個可能有爭議的島嶼是彭佳嶼、蘭嶼, 在日方與法國和西班牙確認後納入領土,1899年台灣總督府民政部文書課發行的台灣總督府第一統計書就以彭佳嶼(アギンコート島)為台灣極北,到此想拿馬關條約保釣已經不可能了。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/fb/eed30650d1c93a6463452deddee9aad0.jpg)