ある日の気づき

ABC予想は確かに証明されていると信じられる理由(2)

節へのリンク
1. 行動経済学の知見:「認知バイアス」は専門家をも誤らせ得る
2. 前記事「ABC予想は確かに証明されていると信じられる理由」への補足
2.1 状況の異常性について
2.2 「数学」という学問の性質について
2.3 双方の文書の文体や形式から受ける印象について
2.4 ファルティングスのp進ホッジ理論関連の論文について
2.5 「身勝手」=自己奉仕/自己中心性バイアスについて
2.6 西欧数学界の一部に見られる偏見について
2.7 「宇宙」について
3. 「概念に不慣れ=論理ミスを犯しやすい状況」対策としての論理記号の価値
4. 本当の意味で中立/公正/客観的な言論は単なる「両論併記」とは異なる
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はじめに^

以下の議論で個人名に敬称をつけないのは、国際政治や経済学についての記事の場合と同じ理由。
つまり言及している人物への敬意を欠いているわけではなく、アインシュタインやニュートンに
言及する議論で、一々「故アインシュタイン博士」/「故ニュートン卿」と書かないのと似た感覚
から、筆者としては自然に感じるからに過ぎない。

この記事の意図は、加藤文元の著書「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」と、望月新一の
ブログ「新一の「心の一票」」そして下記論文で指摘された事の一部/一側面つまり、IUT理論を
巡る言論状況の問題点/不条理/非論理性を、行動経済学の観点から述べ直すことにある。

On The Essential Logical Structure Of Inter-Universal Teichmüller Theory
In Terms Of Logical AND “∧”/Logical OR “∨” Relations:
Report On The Occasion Of The Publication Of The Four Main Papers On
Inter-Universal Teichmüller Theory (2022-11-28版)
# 今後、本ブログ記事での上記論文への言及は、望月のブログでの記法[EssLgc]を踏襲する。

前記事で触れた*R1*-*R3*の論点との対応: *R1*→2.7, *R2*→2.1, *R3*→2.6

1. 行動経済学の知見:「認知バイアス」は専門家をも誤らせ得る^

「行動経済学」は、「損得勘定に関わる心理の、行動観察に基づく研究」が起源である。この
研究内容自体は、「経済学」の一分野というより「心理学」の一分野と見る方が自然に思える
のだが、その知見が主流派(新古典派)経済学の大前提である「「合理的経済人」仮説」を否定
することから、「前記の研究手法で得られる心理学的知見に基く経済学」に発展していった。
なぜ経済予測は間違えるのか? 科学で問い直す経済学」という書籍での、「行動経済学」の
起源への言及箇所 (p.128-129) から引用する。
「1971年、イスラエル人心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーは、二人が
「システム1思考」と呼ぶ直観と、論理的推理、つまり「システム2思考」との違いを探った
論文を発表した。カーネマンによれば、システム1は、「高速で、楽で、連想的で、しばしば
感情が入っている」。それは習慣という、変えたり制御したりしにくいものに支配されている。
逆にシステム2は、「意識的であり、意図して行なわれるもので、ゆっくり、順序を追って、
手間をかけ、慎重に制御されるものだが、規則に従うことができる」
「この「少数の法則の信仰」と題された論文は、実験を受けた人々が、システム1モードで動いている
ときは、確率を正確に推定できないことを示す実験結果を提示した。ごく基本的な誤りを犯し、
偶然の規則をまったく把握していないようだった。あたりまえのことと思われるかもしれない。
実験対象となった人々が、経験を積んだ統計学者だったこと以外は。」
「題にある少数の法則とは、大数の法則という数学の法則を念頭に置いている。... 統計的標本の
精度は、標本の数 ... が大きくなると向上するというものだ。....
統計学者はこのことをよく知っている ---- 少なくともその脳のシステム2の側はよく知って
いる。ところがカーネマンとトヴェルスキーは、実際には、統計学者も多数の標本がなくても
結論に飛びつくことを明らかにした ---- 統計学者は「標本は代表的な集団から無作為に抽出
されたもの、つまり、基本的な性格の点で元の集団とよく似たものと見る」。システム1は、
システム2が電卓を起動するより前に答えにとびついている。その結果、人は簡単に騙される」。
上記事例を含む多くの研究は「「システム1思考」は「認知バイアス」の原因になり得る」という
一般的な命題としてまとめられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/認知バイアス
「... 今日の科学的理解の多くは、エイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンらの業績に
基づいており、彼らの実験によって人間の判断と意思決定が合理的選択理論とは異なった方法で
行われていることが示された。」
認知バイアスは極めて普遍的な心理現象であり、状況次第では専門家も「認知バイアス」による
判断ミスを犯し得る。「ABC予想は確かに証明されていると信じられる理由」の記事で [EssLgc] 
引用箇所/「新一の「心の一票」」の引用箇所で触れたような論理構造の誤読を、数学者ですら
犯すことは珍しくない(当人が認めた事例もある点に注意)。

ちなみに、例えば国際政治に関する言論への認知バイアスの影響例は、枚挙に暇がないほどだ。
主流派経済学者が、明らかに事実に反する前提や根拠が示されていない前提に基づく議論を撤回
しようとしないことにも、認知バイアスの影響が見られる。下記シリーズ記事で触れた書籍参照。
なぜ経済予測は間違えるのか? 科学で問い直す経済学

こうした他分野に比較的すれば、数学の内容自体への認知バイアスの影響は比較的目立たない。
しかし、「数学を巡る言論」全般では、認知バイアスの影響は随所に見られる。ABC予想を巡る
言論状況 ---- より適切な表現は「IUT 理論を巡る言論状況」だが、この呼称問題については、
後述する ---- は、その中でも最悪の事例の一つかも知れない。

「[EssLgc] §3 の議論を追うには IUT理論の技術的詳細についての知識が必要」ではあるのだが、
技術的詳細についての知識なしに読める箇所を拾い読みしていくと、p.104の (Syp1)-(Syp3)
という「典型的な誤解の症状」についての説明が見つかる。これらは、IUT理論の既存の数学と
異なる考え方/言語体系(「宇宙と宇宙をつなぐ数学」p.51の「IUT語」)ではなく、既存の
数学の考え方/言語を無理に当てはめて理解しようとすることによる誤解と考えられる。なお、
ショルツェが「IUT 理論への疑問」を声高に言い立て始めた頃の発言は、(Syp1) そのもの。
 At this point, it is perhaps of interest to consider “typical symptoms” of
mathematicians who are operating under fundamental misunderstandings concerning 
the essential logical structure of inter-universal Teichmüller theory.
 Such typical symptoms, which are in fact closely related to one another, include
the following.
(Syp1)
a sense of unjustified and acutely harsh abruptness in the passage from [IUTchIII], 
Theorem 3.11, to [IUTchIII], Corollary 3.12 [cf. the discussion of the final portions
of Example 2.4.5, (ii), (iii)!];
....

オリジナルの IUT 論文は「既存の数学と異なる考え方/言語体系」=「IUT語」でしか語れない
IUT 理論を述べるもの。ところが「宇宙と宇宙をつなぐ数学」p.68-70「「興味深い」ということ」
という節での説明によれば「... ABC予想そのものは ... 彼らにとって非常に興味あるものですが、
... IUT 理論の方は、彼らにとってはあまり興味を見出すことのできないものかもしれません。」
と考えられるフシがある。このため、「IUT を理解するために時間をかける」という、「現時点の
「コスト」」が「最終的には ABC 予想の証明を理解できるだろう」という「期待利益」に比べて、
むやみに大きく感じられることで、(Syp1)-(Syp3) のような「短絡的誤解」に走りやすくなるという
行動経済学の観点からの説明が可能なように思われる。
# 2023-01-18: ↑つまり、イソップ寓話「すっぱい葡萄」の狐になってしまっている(笑)。
ショルツェらのレポートの表題が abc 予想に、望月の論文表題がIUT 理論に、それぞれ言及して
いること自体が、ある意味では現在の IUT 理論を巡る言論状況を象徴しているとも言えよう。
# 2022-12-29: 望月新一のショルツェらのレポート(5月版)へのコメント冒頭で、この点に
# ついて望月が感じた違和感が表明されている。
# "It is interesting to note that here, explicit mention is made of
# the ABC Conjecture, but not of IUTch".
# 2018年3月のIUT討論に関連する文書は、上記2つも含め、下記からリンクされている。
# https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/IUTch-discussions-2018-03.html
# ただし、Ivan Fesenko による下記2文書には、直接のリンクはされておらず、著者の
# ホームページへのリンクになっている。ここでは、直接リンクしておく。
# [FskDsm] "About certain aspects of the study and dissemination of Shinichi
#  Mochizuki's IUT theory" by Ivan Fesenko
# [FskPio] "Remarks on aspects of modern pioneering mathematical research"
#  by Ivan Fesenko
# Fesenko のコメントは、日本人の IUT 理論関係者によるコメントより率直な印象を受ける。
# 「IUT 理論の発表当時、その理論的基礎の一部である「遠アーベル幾何」の専門家は、日本
# 以外には、あまりいなかった。ショルツェも「遠アーベル幾何」の専門家ではない。」など、
# 「日本人 IUT 理論関係者は誰も敢えて言及しないが、素人の状況理解には役立ちそうな事実」
# にも遠慮なく言及しているし、IUT 理論を取りまく政治的/社会的状況に絞った記述なので、
# 素人にも読みやすいし、比較的短い([FskDsm] は5ページ、[FskPio] は8ページ)。

2. 前記事「ABC予想は確かに証明されていると信じられる理由」への補足^

以下について補足する。
(a) 状況の異常性について
(b) 「数学」という学問の性質について/(元ネタの引用追加)
(c) 双方の文書の文体や形式から受ける印象について
(d) ファルティングスのp進ホッジ理論関連の論文について
(e) 「身勝手」=自己奉仕/自己中心性バイアスについて
(f) 西欧数学界の一部に見られる偏見について
(g) 「宇宙」について

2.1 状況の異常性について^

フェセンコが[FskDsm]で記述している事実関係を整理していて、ふと気が付いた事がある。
それは、*IUT理論を巡る言論状況の途方もない異常性*を認識している人の割合が少な過ぎる
という事だ。最大の異常性は、そもそもショルツェの行動が、「数学における学術的議論」とは
言い難いこと。正常な「数学における学術的議論」は (1)-(3) での*論文著者との直接対話*
でなければ (4) の形。
(1) プレプリントとして公開した論文に対する質問提起者と論文著者との、メール等を含めた
  質疑応答
(2) 論文著者を講演者とする「ワークショップ」/研究集会の講演での質疑応答
(3) 論文提出先の学術誌が指名した査読者と論文の著者の間の質疑応答
(4) (主に微妙な論点について)*適切な学術誌*に査読付論文を発表する。
過去の「「歴史的難問」の解決論文の検証」は、これらの形態で議論がされ、一部の関係者
(=著者との直接対話への参加者+微妙な論点についての査読付論文執筆者)以外の発言が
検証中に公になることなどなく、査読完了を宣言すれば、それで議論は終了した。例えば、
フェルマー予想 * では、最初に (2)ないし(3) で誤りが指摘され、(3次元)ポアンカレ予想は
「微妙な論点(原論文で言葉だけで説明され、数式で記述し直すことが簡単でない部分)」が
(4) によって肯定された。四色問題の解決も、最後に (4) で確認された部分がある。なお、
難問の最終解決以前には、(1)-(3) で指摘された誤りで否定されてしまう論文も、当然ながら
存在した。例えば、四色問題解決で著名なハーケンに、別件(「3次元ポアンカレ予想」)の
(2) で否定された論文がある(ブルーバックス「四色問題」(2016年版)p.205 l.7-l.10)。
しかし、IUT理論を巡る言論状況は、こうした数学での学術的議論のありようとは全く異なる。
(1)-(4) の数学的議論/検証手続の関係者でなく、そもそも検証手続きに十分な貢献が可能な
ほどの背景知識がないのみならず、*検証手続きにまともに関わることすらしない人物*が、
*学術的議論の場以外で、学術的根拠を示さず、否定的言説を垂れ流す*という状況だった
わけだ。はっきり言って、話題以外の全ての特徴から見れば「単なるネットでの誹謗・中傷」
でしかないのだが、マスメディアをも含む素人は「学術的議論における問題指摘がされている」
かのような勘違いをしてしまった。ショルツェの振舞いが根本原因ではあるが、彼の行動を
放置した周囲や、異常な言説の拡散に加担したマスメディアやネット参加者にも問題はある。
∵「冤罪事件における、マスメディアの報道やネットでの言説による加担」と本質的に同じ事。
望月の2018年3月の討議に関するレポート [Rpt2018] の p.3 下から 8行目からも参照。
§3. On the other hand, it seems that the March discussions may in fact
be regarded as constituting substantial progress in the following sense.
Prior to the March discussions, (at least to my knowledge)
negative positions concerning IUTch were always discussed in highly
non-mathematical terms, i.e., by focusing on various aspects of the
situation that were quite far removed from any sort of detailed,
well-defined, mathematically substantive content.
# 大意: 「それまで撒き散らされていた否定的言辞は数学的内容が皆無なので、3月の討議で
# 「ともかく「数学的議論」があった」という点では、状況が進展した」←皮肉混じり^^:
望月側レポートかショルツェ側文書へのコメント([Rpt2018] /[Cmt2018-05] /[Cmt2018-08])
どれか一つにでも目を通しさえすれば、「ショルツェ側レポート中では区別されていないが、
IUT 論文では区別がある数学的対象の存在」を疑うことは不可能。∴数学的議論の詳細は理解
できなくても、ショルツェの議論は安易に鵜呑みにしてよいものではないことは分かるはず。

にも関わらず、IUT への否定的言説(=デマ^^;)の拡散は 2018年以降も続いた。つまり、
多くの「望月側の報告文書は見ないで騒ぐ」連中が存在する。その一因は、ショルツェらの公開
レポート= [SS2018-8] に [Rpt2018] , [Cmt2018-05] が参照文献として挙げられていない
ことにある。ショルツェらは、[Rpt2018] 、[Cmt2018-05] を参照して [SS2018-5] の公開を
取りやめているし、[SS2018-5] の用語の誤りに関する指摘は反映していたりもするのだから、
参考文献に挙げないことは、一般的な文献参照での作法に反する。このルール違反の動機は、
「文書を見比べれば「ショルツェ側の主張がおかしい」事が明らか」だからだと推定される。
# 「IUT の原論文だけ参考文献として挙げ、勝手な(実際は間違った)解釈をつけた説明だけ
# しておけば、IUT 論文の難解さゆえ、ゴマカシはバレずに済むだろう」という卑しい発想の
# 所産としか解釈できない。ショルツェらの振舞いは、あまりにも見苦し過ぎる
とは言え望月側(=IUT の専門家側)の見解は IUT のワークショップや望月のブログから、
発信され続けていた。∴「異常な言論状況全体」は「専ら先に目にしたショルツェのデマに
のみ基づいて状況を判断する」典型的な認知バイアスの所産と考えられる。

2.2 「数学」という学問の性質について^

前記事の「1. 「数学」という学問の性質から、より「ありそうな事態」は何か考える」での論点
「数学の難しさは「高度に抽象的な概念を厳密に論理的に使う」ことにあり、「高度に抽象的な
概念」は「具体性が感じられて来るまで使い込む」事なしには、正確な使用が難しい」および、
「2020年11月の論文の著者達は、何年もの間IUT の諸概念を使い込んで議論を積み重ねた事に
なる。その彼らの誰一人として疑問を持たない命題の証明過程に欠陥があるという事態より、
IUT の概念に十分なじんでいない門外漢の勘違いの方が、ずっと起こりやすい。」については、
「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」に、より丁寧に、説得力ある形で説明されている。
例えば、p.26-29, p.49-51 を参照。
# 追記: 前記事の「1. 「数学」という学問の性質から ...」の記述自体も、下記が元ネタ。^^;
# 足立恒雄改訂新版 類体論へ至る道*
# ii 序 l.6-l.8: 「数学を数学たらしめている抽象性というのは、単に抽象的ということよりも
# むしろこれらの抽象化の手段を何度も反復使用することに本質的に意味がある。」
# 「反復によって抽象存在は具体存在と化する」(l.14)
# iv 改訂新版序 l.13-l.14 「3割方内容を知っていないと、数学の本は読めない」

つけ加えておくと、「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」p.7, p.100-p.106 にあるIUT理論が
複数の数学者との対話を通じて構築された経緯の記述や前記望月のホームページにある感想・着想
記述から読みとれる、「理論を可能な限り「自然」で「単純」な形にする努力の跡」から考えて、
もしショルツェらの言う「理論の大幅な単純化」が本当に数学として有効な議論になっているなら、
望月は、それを歓迎するだろう。

しかし、↓そんな単純化が簡単にできるものか?IUT 理論の構築過程↑と対照して、考えるべきだ。
https://duckduckgo.com/?q=as+simple+as+possible+but+not+simpler+einstein
# そもそも、*数学理論の単純化*が、元の理論の理解なしに可能なはずがない。元の理論を
# 理解した上での*意味のある単純化*に基いて問題を指摘しているなら、元の理論の言葉に
# 沿った問題指摘が可能なはず。それが出来ないという事は、元の理論を理解していない事を
# 意味する。即ち、ショルツェら RCS-IUT 唱導者は IUT を理解していない。Q.E.D. :-)

ネット検索して最近見かけたページに、議論の様相を「泥試合」と表現したり、海外数学者の
コメントと称して(言うに事欠いて)[EssLgc]の議論を「藁人形論法」扱いするものがあった。
ここまで事実誤認がひどい(というか事実を確認しようとした痕跡のかけらもない)と、既に
「数学について素人だから」などという言い訳も意味をなさない、単なる誹謗・中傷である。
ショルツェらの "drastically simplified (version of IUT theory)" (=[EssLgc]の RCS-IUT)が
オリジナルの IUT と論理的に等価であることを示せていない以上、「藁人形論法」を使用して
いるのは、ショルツェ側でしか有り得ない。そもそも、数学論文の誤りを指摘する際の正しい
「作法」は、*オリジナルの論文において、どの推論ステップが論理的に妥当でないかの指摘*
以外にはないのに、そうしていないという時点で、ショルツェらの批判は「無作法」である。
[EssLgc] においてショルツェらの名前に言及していないことに対する「逆切れ」めいた言辞を
*無批判に、わざわざ日本語に訳して*引用していたのも、いただけない。例えば、 [EssLgc]
(2022-11-28 版では p.8) に、下記のように数学者の個人名ではなく RCS-IUT という表記を
使う理由が説明されている。

One fundamental reason for the use of this term “RCS” [i.e., “redundant copies
school [of thought]”] in the present paper, as opposed to proper names of math-
ematicians, is to emphasize the importance of concentrating on mathematical
content, as opposed to non-mathematical  i.e., such as social, political, or psy-
chological  aspects or interpretations of the situation.

ちなみに、オリジナル論文査読の過程で、いくつか「作法」にのっとった指摘はされていて、
望月は全てにきちんと対応した。望月のホームページの「最新情報」に論文修正履歴がある。
結局、それらの指摘箇所は、岡潔の言う「ケアレスミステイク」に過ぎなかったわけだし、
[EssLgc]による誤解の解消成功例での「なごやかな雰囲気」の記述は「情緒」の重要性の傍証。

また、[EssLgc]における望月の「(RCS-IUT についての)誤解学(誤解の内容/原因分析)」が
的確であることは、その分析に基づく説得の成功事例の存在により、裏付けられている。結局、
泥にまみれているのは、RCS-IUT を唱導している側だけで、望月は理論の「誤解を解く/正す」
ため、あるいは正しい IUT 理論の普及のため、誠実に努力を積み重ねているに過ぎない。

2.3 双方の文書の文体や形式から受ける印象について^

望月の [Cmt2018-05]、[Cmt2018-08] に共通する文体ないし形式上の特徴は、[SS2018-05]、
[SS2018-08] のどの部分へのコメントかが、全て明確なこと。ショルツェ側のレポートでは、
そもそも原論文の*どの部分の記述へのコメントか*明確でない -- というか、望月の指摘を
考慮すれば、原論文の記述へのコメントになっていない/意味を成していないと判断せざるを
得なくなる。さらに、3月の打ち合わせでの望月側とのやりとりへの言及箇所が、主観的印象の
表明でしかなく、望月側の発言内容との整合性に疑問を抱かせる代物(i.e. 裁判での証言なら、
反対尋問でボロボロにされそうな印象)。一方、望月の [Rpt2018] での打ち合わせの描写は、
明確かつ具体的で臨場感がある(裁判での証言なら、「信憑性が高い」と評価されそうだ)。

2.4 ファルティングスのp進ホッジ理論関連の論文について^

別記事で言及した望月のコメント中の「関係者の間ではよく知られている話」を裏付ける記事。
別冊・数理科学 数論の歩み 未解決問題への挑戦」p.170 左下から13行目以降のパラグラフ
「p進ホッジ理論は ... '80年代に著しく進歩 ... Wiles の Fermat 予想の証明(... **) )
でも使われた。ただ困ったことに、そこで使われたp進ホッジ理論の結果の Faltings による
原証明は不完全なのである。この欠陥は以前から指摘されていたが、Wiles 以前はそれほど
問題にされることもなく ... 使われていた。しかし、フェルマー予想という大予想の証明に
使われたということで、あらためてこの欠陥が問題視されたが、結局今の所そのギャップは
埋まっていないようである。... Faltings の証明は省略が多く、彼の証明を完全にフォロー
した人はいないという状況もあって、最近では p進ホッジ理論の定理はどこまで完全に証明
されているのか分からないといった声さえ聞かれる。....」
**) 引用した記事は「p進 Hodge 理論」辻雄。初出は「数理科学 ('94年8月発行)」なので、
初出時は、 Wiles の Fermat 予想の証明のギャップを埋めたバージョンは未発表だった事が
言及されていた。別冊・数理科学への再録時の改稿で、対応する脚注が追加された。
「その後 p進ホッジ理論を使わない形で Wiles 自身によりギャップは完全に埋められた」
なお、Wiles の Fermat 予想の最初の証明(*)は、p進ホッジ理論の結果利用とは別の問題があり、
そちらの方が深刻だったようである。

2.5 「身勝手」=自己奉仕/自己中心性バイアスについて^

望月のブログで批判されたNHK スペシャル後半でのファルティングス等の数学者側の問題は、
*「理解が成立する」事の責任を一方的に望月を始めとする IUT の専門家たちに押し付ける*
理不尽としか言いようのない「身勝手」さにある。簡単に確認できる客観的事実を述べよう。
(1) 望月は、フェルマー予想でのワイルズの場合と違い、研究内容を秘密にはしなかった。
- 研究の方向性についての講演や論文での言及、(「圏の幾何」や「F1 上の幾何」、 さらに
「IU (inter-universal) 幾何」という言葉すらIUT 発表の何年も前から使用。
- 「宇宙際タイヒミュラー理論の論文を執筆中である」こと自体も公言し、「進捗報告」講演
 も実施。∴知らない/分からないのは、知ろうとしない/分かろうとしない事が最大原因。
 例えば、「系3.12の証明が追えない」のは、そもそも主定理 3.11 を理解していない事が原因。
 「abc 予想を導く部分=系3.12 だけ丁寧に読んで済ませよう」とかいった甘い考え方で、
 IUT 理論の基本概念を把握せずに読み飛ばしたので、「系」の証明すら追えないだけ。
(2) 望月ほど、「既存の数学理論と自分が新たに発表する数学理論との対比」を丁寧に説明して
 来た数学者は、他にいないようにすら思われる(∴これ以上、何を求めているのか不明)。
- 「従来の数学との違い」は、例えば「望月の出張・講演」ページ( 日本語の資料だと [11] の
概要、談話会、アブストラクト、 英語の資料だと [15] の Abstract と OHPのPDF)等に端的な
説明がある。 「(日英の)宇宙際タイヒミュラー理論への誘い」等には「アイデアの出発点」も
説明されている。少なくとも、これらと同等以上に丁寧な説明を*理論の構築中から実行した*
数学者はいないだろう(アイデア盗用を恐れて、ここまでオープンには出来ないだろうから)。
- 望月は講演資料や論文で、既存の数学理論との対比を、表を使って説明する事が非常に多い。
 他の多くの数学者は、ごく短く簡単な文で言及する程度。
- IUT 四部作論文の発表後だけでも、複数既存理論との詳細な対比を含む解説論文が3本発表
 されているのだが、これらの論文を読んだ上での発言とは思えない。
 なお、IUT 四部作論文自体にも、既存数学理論との対比は随所に含まれている。
(3) IUTを攻撃(RCS-IUTとの同等性を主張)する連中は望月ら専門家との対話を拒否している。
- IUT 研究集会/ワークショップに出席せず、専門家に疑問や不明な点について質問もせず、
 自分(達)がIUTだと信じている内容を査読付論文で明確にすることもしない。2.1 で述べた
 ように、これでは単なる誹謗・中傷であって、学術的議論ではあり得ない。フェルマー予想の
 最初の証明の問題点は「論文著者との*徹底的な直接対話*によって明らかにされた」ので、
 状況が違い過ぎる。IUT の専門家側は、「疑問点があれば何時でも質問を」と呼びかけている
 ことが、望月の [EssLgc] やフェセンコの [FskDsm] に明記されており、対話不在の責任は
 IUT 攻撃者/RCS-IUT 唱導者側にあることは明白。
# ↑3次元ポアンカレ予想の証明検証経緯との違いも、嘆かわしい。
以上の状況と 2.4 の事情を合わせて、「ショルツェらの肩を持つ」ようなファルティングスの
発言は、望月からは「オレが分からないのはオマエの説明が悪いからで、オマエが分からない
のはオマエのアタマが悪いか、オマエが不真面目だから」という態度に見えても仕方がない。
ファルティングスが IUT 解説論文、講演資料、2018年3月討議報告のどれか一つでも目を通した
ことがあるのかすら、極めて疑わしい。クロネッカーがカントールの「不肖の師 ^^; 」だった
ように、ファルティングスは望月の「不肖の師 ^^; 」になったように思われる。

2.6 西欧数学界の一部に見られる偏見について^

西欧数学界の一部に、西欧以外の数学者の業績への途方もない無関心や、能力や実績を過少に
評価する傾向があることは事実。IUT 以外にも数ある望月の業績を認識していれば、少なくとも
望月の言い分を確認せずに、望月が間違っていると決めつけられるはずがないのだが。
例えば、谷山・志村予想が、単に紹介しただけの Weil の名をも冠して呼ばれるといった例に
とどまらず、日本の超有名な数学者がきちんと証明した事までも、他の西欧数学者の業績として
記述されている事例すらある始末。
足立恒雄「改訂新版 類体論へ至る道 * p.245 下から11行目 - P.246 2行目
「クロネッカーの青春の夢 ... これを解決したのも高木貞治である (1920 年) 。しかるに、
ハッセが青春の夢を解決したと述べている欧文の書物を見かけることがあるのは困った認識
不足である。ハッセは虚数乗法論を整理して高木の業績を紹介したに過ぎない。」
さらに、ある分野の専門家の能力についての常識的な判断も、欧米人でない場合は適用外に
してしまう欧米「数学者」も存在する。下記に数学基礎論の著名な専門家である竹内外史の
体験談がある。GLC (General Logic Calculus : 全ての有限階の述語論理を含む論理体系)に
ついての「基本予想」関連の論文を提出したときの話ということだ。
臨時別冊・数理科学 現代数学のあゆみ杉浦光夫・足立恒雄 共編 p.17 l.1-l.6
「私の基本予想についての論文はドイツの数理論理学者によって review されました。そこでは
"著者は基本予想から自然数論の無矛盾性が出て来ると主張しているが、これは明らかにゲーデル
の不完全性定理に矛盾する" というとんでもないことが書いてありました。」
言うまでもなく、数学基礎論の専門家が「明らかにゲーデルの不完全性定理に矛盾する」論文を
発表するはずはない。ゲーデルの不完全性定理は、推論に出て来る全対象に「ゲーデル数」を
付与して自然数論の命題に翻訳できる場合の話。例えば、ゲンツェンという論理学者により、
「超限帰納法」を使う自然数論の無矛盾性証明が得られているほか、無限集合論を使えば証明
可能だが、ペアノの公理系に閉じた範囲で証明できない自然数論の命題は、「体系の無矛盾性」
とか「「自分自身が証明可能でない」と述べる「ゲーデル文」」を変換して得られる自然数論の
命題と違う「ある程度「普通の」数学の命題らしく見える」ものもある。∴竹内外史の論文を
review した(多分、ゲンツェンの業績も知らなかった)側の見識の方こそが疑われるわけだ。
ショルツェの「IUT 理論の review」も同じこと。

2.7 「宇宙」について^

集合論の公理を追加することで、公理的集合論で「宇宙」を「集合」として扱うことも可能。
この方針で集合として扱う場合の「宇宙」は「グロタンディーク宇宙」と呼ばれる。圏論では
単に「宇宙」と言えば「グロタンディーク宇宙」を指す場合が多いようだ。2002年の時点で、
望月が「圏論的な考察」の際に「グロタンディーク宇宙」に言及した文書があるので、IUT の
「宇宙」は圏論的な用語法、つまり「グロタンディーク宇宙」を意識していると思われる。
講演のアブストラクト・レクチャーノート
...
[3] Anabelioidの幾何学
[4] Anabelioidの幾何学とTeichmuller理論
これら2文書は「宇宙際」という概念を考察するに至った動機の説明を含んでいる。
# つまり、どの版の「宇宙際タイヒミュラー理論への誘い」でも「突拍子もない」と断った上で
# 述べている「二つの同型な環の間で、環準同型にはならないが構造に対応関係がある状況」を
# 考える際には、「(違う宇宙なら集合論的な基礎が違うので)*形式論理上は、別の環構造に
# なる*状況」が、次のような手法による対応の考察と整合性が高く、見通しが良くなるから。
# 「遠アーベル幾何の「群作用」や「テータ関数の特殊値」の対応から、環構造の対応を逆算」
# 2023-03-17: 望月のブログ記事 (2022.05.02) にある下記コメントに注意。
「掛け算とは両立的であるが、足し算とは両立的でない対応付けによって誘導される、別々の
宇宙間の関係性 ... 「宇宙」という概念が新しいのではなく、別々の宇宙の繋ぎ方が新しい」

3.「概念に不慣れ=論理ミスを犯しやすい状況」対策としての論理記号の価値^

[EssLgc] で、望月が論理記号によって「「(理論」の)本質的論理構造」を表すという方法で
RCS-IUT の問題点を明確にしていることを、「藁人形論法」であるかのように言い募る言辞が
的外れであることは前節で述べた。ただ、section 3 の議論をフォローできない人の一部は、
[EssLgc] での論理記号表現の価値を実感できないため、RCS-IUT での主張に意味がありそうな
印象を持ってしまうのかも知れない。そこで、数学者でなくても、「こうした論理記号表現が、
論理ミスの対策として有効」と実感できそうな例を、一つ示しておこう。[EssLgc] の IUT や
RCS-IUT の論理構造の論理記号表示より*はるかに単純な、たった一つの推論、「ならば」に
関する、「ウェイソン選択課題」による、行動経済学での有名な実験*について考える。
まず、下記 Wikipedia 記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/確証バイアス
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウェイソン選択課題
あるいは
読書ノート:「なぜ経済予測は間違えるのか? 科学で問い直す経済学」(6)
2. 主流経済学が科学ではない理由再論」の最初の方を見て、課題を自分で考えておくと
最初から論理記号による説明を読んだ場合より、実感が得やすいかも知れない。

次のような実験結果が得られている。(1)は「確証バイアスの存在」、(2)は「概念への慣れ」
によって説明されることが多い。
(1)「4枚のカードについて「「カードの表の数が偶数」ならば「カードの裏に塗られた色は赤」」
 となっているか検証するために、どのカードを裏返す必要があるか」」という形で提示されると、
 かなりの人が判断を間違える。
(2) 「4枚の写真について、「成人していなければ、飲酒は許可されない」規則の遵守状況確認の
 ため、どの写真の場合に年齢ないし飲み物を確認する必要があるか」」という形で提示されると、
 ほとんどの人が判断を間違えない。
しかし、「A→B」を「¬A ∨ B」と置き換えた命題だと、どちらの場合でも「間違えようがない」
ように見えてこないだろうか?

4. 本当の意味で中立/公正/客観的な言論は単なる「両論併記」とは異なる^

何らかの意味で妥当性のある基準によって論理的に両論を評価しないと、結果的にデタラメな
主張をした側を有利に取り扱ったことになってしまう。重要な点は、区別する理由がない場合は
同じ基準を同等の論理で適用することと、挙証責任の所在などで区別が必要な場合、その根拠を
明示することである。

本ブログでは、基準として「論理的に議論を進めているか、レトリックに走っているかの区別」を
採用する。望月の [EssLgc] は、section 1 の各節においてすらも「論拠を明記する」姿勢を貫いて
いるほか、全体に「相手方の主張をも徹底的に理解する」意欲を示している一方、ショルツェらの
 "abc is still a conjeture" では、行間から「相手方の主張を、まともに聞こうとしていない」
態度が滲み出ている。何より、ショルツェらは「数学論文の誤りを指摘する側」の「挙証責任」を
果していない(=原論文の記述のどのステップが「論理的に妥当でないか」述べていない)。また、
2022年6月に出版された共著論文 "Explicit estimates in inter-universal Teichmüller theory"
(査読+出版は「東京工業大学」で行われた)の存在も、門外漢にとっては、IUT 理論の正しさの
強力な傍証の一つと見ることができる。例えば司法での事実認定では「論理的証明」は要求されて
おらず、いわゆる「歴史的証明」で十分とされる。「素人だから、数学的内容の「論理的証明」の
妥当性を検証できない」ことを言い訳に、上述してきたような「歴史的証明」が可能なことを無視
し続けるのは、個人レベルでの情報発信においても無責任な態度だと、本ブログ筆者は考える。

こうした状況を踏まえると、望月の下記ブログ記事でのNHK の特集番組批判は、正当なものだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/diary/202205020000/
「2022.05.02
2022年4月のNHKスペシャルに対する「合格発表」: 前半はぎりぎり合格、後半は不合格」
# ↑ここでの「公共放送が数学という学問の性質への誤解を招きかねない内容を放送した罪は重い」
# という指摘に対する反論の余地があるとは思えない。

最後に、望月 [EssLgc] 1.10 で提示された MIPR (Mathematical Intelectual Property Rights) 
という興味深い概念に言及しておきたい。これは、RCS-IUT のような「紛い物の理論/概念」が
「歴史の審判に耐えられる形(つまり「論文形式」)」での文書すらないまま、数学の学問的に
健全な議論を妨げることへの歯止めを意図するものだ。既存の Intelectual Property Rights の
中から強いて似ているものを挙げるとすれば、「著作者人格権」の「同一性保持権」あたりだが、
狙いが「人の権利保護」ではなく「概念や理論の明瞭性確保」という点で、全くの別物になる。
# ただ、RCS-IUT の唱導は、少なくとも「著作者人格権」を定めた「ベルヌ条約」の「法の精神」
# あるいは「立法意図」に反する行いであるような気がするのだが...
https://ja.wikipedia.org/wiki/著作者人格権
... 著作物の創作者である著作者が精神的に傷つけられないよう保護する権利の総称である」
# ∵理論の内容をねじまげて広めたあげく、そのデタラメな内容に基づき本来の提案者の理論の
# 内容が間違っているという風説をばらまくことは、「提案者を精神的に傷つける」はず。
# 法的に「著作物」とみなされるのは「論文」であり「理論」ではないので、「著作権法違反」
# に問うことは難しいかも知れないが、RCS-IUT の唱導者や、その言説を広めることに手を貸す
# 記事を垂れ流している人は、「道義的責任」を負うのでは ....
今度こそ本当に最後にするが :-) 、 [Rpt2018] の p.43 末尾にある望月の心情を引用しておこう。
Indeed, at numerous points in the March discussions, I was often
tempted to issue a response of the following form to various assertions
of SS (but typically refrained from doing so!):
Yes! Yes! Of course, I completely agree that the theory that you are
discussing is completely absurd and meaningless, but that theory is
completely different from IUTch!

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