生誕97年
福岡 正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日)
③
『季刊仏教・通巻25号
特集「日本仏教」批判』
法蔵館
1993年10月
130ページより抜粋
福岡正信
「自然教に生きる」
●自然が神
私は自然と、四、五十年間どうつきあってきただろうか・・・。
今夜は満月である。
芭蕉は「明月や池をめぐりて夜もすがら」と詠んだ。私もまねしてみたが、「名月や口あんぐりと見るばかり」。句にもならない。
宇宙船にのって、すさまじい人体実験で身も心もぼろぼろになってまで月の石を拾いに行く人もある。
人の姿はさまざま、それでよいではないかというのが世間の常識だが、私にはそうは思えない。月は一つ、真理も一つ、人間が生きる目的も一つのはずである。
私はかつて、神は一つ、自然が神だと断言した。五十五年たった今日もやはり、間違いじゃなかった、と言っている。そんなこと誰でも昔から知っている、それが八百万の神だ、と言われるかもしれない。しかし、本当に知っていると言えるのか。あなたは大根の花が拝めるか。
知っている、判った、という言葉くらい当てにならぬものはない。
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●時計を捨てる
人間の判断、行動はすべて、時間によってしばられているといえる。
「時は金なり」という。これは経済的な価値観ばかりをいっているのではない。人類は時計にしばられて身動きができなくなっている。
私は昔から、時計を捨てよ、と言ってきた。もし、時空観を表徴する時計を捨てることができたら、此の世のすべての悩みは氷解する、と。
今までに、私の話を聞いて実際に時計をはずして、ぽい、とみかんの木の下に捨てた人が、一人だけいた。オーストリアのテレビ局の人だった。「神とは何か」「この大根の花が、神だ」「それを知るにはどうしたらよいか」「あなたの腕時計を捨てればよい」と言った時のことだった。
人間が時計を捨てたら、早い遅いの判断基準がなくなる。 遠い誓い、長い短い、古い新しいもなくなり、暦がなくなり、年齢がわからなくなり、若い老けたもなくなって、いつ死んでもよいことになる。
日本でも時計がなくなってインドのガンガータイムになれば、車もいらず、飛行機も飛べなくなる。日の出日の入りや月の満ち欠けだけみて暮らす、のんびりした生活が復活するだろう。老子の「小国寡民」が息をふきかえし、囲炉裏端で満足できるようになる。
何もあわてて宇宙の遠くにまで出かけていって石のカケラを拾って来ることはない。生活大国なんて言っても、せいぜい南の海の鯨の肉、北の狐の毛皮、南アフリカのダイヤを拾ってくるぐらいがセキの山である。時計を捨てて見方を変えれば、囲炉裏端が大宇宙となり、大宇宙も小宇宙も同じになる。
一衣一椀。食っちゃ寝て、食っちゃ寝てして生きるだけ、に徹して生きればよいのだ。
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●発達とは何か
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●農業の発達と農民の衰え
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