一反百姓「じねん道」【百姓の100章】『農的ワークライフバランス』実践と研究日記@斎藤博嗣&裕子*4人家族(夫婦子供2)

2005年、東京から茨城の農村へ夫婦で移住し新規就農。
こども百姓「じねん童」2人と共に、家庭自給生活を自学自習中

彩葉二歳誕生日

2009年10月23日 | こども百姓「じねん童」

彩葉二歳誕生日
おめでとう


お祝いに、この本を贈ります
『無Ⅰ 神の革命』
福岡正信


 人間は生命を附与せられて地上に生れた一個の生物である。
人間が生物として地上に出現しえたという事実は、
何よりも人間が大自然の児であり、自然のままにおいて当然
生き行きうる力が必然的に附与されていることを意味する。
 生きて行く、生きねばならない、食物をとり、働いて
作物を作り-----を、元来なんら必要としない生物であり、
生命をもっているはずである。
 何らの意識も手段も必要としないで生命を保持してゆく力が、
他の草や木と同様、生れながらにして具備されているはずである。
草木とともに、生きようとしなくても生きる。
無心にしてなお生きてゆく、成長してゆきうるはずである。
 母の胎内から生れた赤子が、無心にしてなお力強く呼吸し、
大声を発して生きてゆくように、たとえ人間が生きようとする意識を
忘れたとしても、生きねばならないという努力を放棄したとしても、
人間はなお生きてゆく。
生きうる力が自然のままに備わっているはずである。
 もし人間が、ただ天寿をまっとうして、
生きてゆくのみに満足しうる生物で終ったなれば、
そして鳥が野の木の実を啄ばみ、蝶が蜜をたずねて
生きてゆくように、もし人間が野の草を摘み、
木の実を拾って喰うことに満足しえたなれば、
人間にとって生きねばならぬという言葉は必要でなく、
そして食物を作ってという考えも、
田畑を耕すという労苦も知らなくてよいはずであった。。
 人間の本来の姿は、何等の意図も手段もろうすることはなく、
無心にしてなお生き得る生物であった・・・。

『直立猿人』
あなたの歩く姿を見たあるお婆さんが、
「歩くことがこんなにも素晴らしいことだって知らなかったわ」
と言っていました。
『生々流転』
あなたを私たちはなるべく裸足(ハダシ)にしています。
だから「わー寒そう
そんな裸足で痛くない?」
と良く聞かれます。
素足で歩くことは、大地の息吹きを、
転ぶことは、大地の営みを、
あなたに教えてくれることを信じて。。
早く立たなくても、
真っ直ぐ歩けなくてもいい。
この星があたたにくれるものを見落とさないように。

彩葉ちゃん、誕生日おめでとう。
博嗣・裕子withフィガロ


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