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Looking For Changes (第三回)

2013年04月29日 23時59分59秒 | 持論・主張

フランクリン・デラノ・ルーズベルトと言えば第一次大戦後に訪れた世界恐慌をニューディール政策で乗り切り、第二次世界大戦では連合国を勝利に導きながらも終戦間際で志半ばで亡くなった大統領として有名だと思います。

一見平和を愛し世界の為に尽くしたかの様に見える人物が、実はそうでは無かった。 と聞いたら、あなたはどう思いますか?


実際の話、太平洋戦争開戦後の事。 
ドイツ・イタリアもアメリカ合衆国に宣戦を布告しましたが、強制収容所を建設し収容したのは日系人だけであった事実。
そして日本人に対し
「われわれのより約2000年、発達が遅れている」
とか
「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」
「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」
などとキャンベル駐米イギリス公使(当時)に語ったという事実。
当然ながら黒人差別は継続中で(法の上での差別撤廃は戦後約20年後の事)、結構な人種差別主義者であった事が伺えます。
(まぁアメリカ合衆国の成り立ち自体、先住民を駆逐して出来上がったんだから当然の思想と言えばそうなんでしょうね)


んで、またまた別の話として、日本に対して「戦争をしたがってた」って説もあります。
「え? 太平洋戦争って日本がアメリカ合衆国に一方的に喧嘩売って起こったんじゃないの!?」
――結果から見ればそうでしょう。 が、『ハルノート(最後通牒)』以外にもアメリカ合衆国が日本と戦争したがってた理由がチラホラ伺えたりするのです。

第二次大戦が発生し、連合国が不利な状況下に於いて、当初は武器供与に留まり、合衆国国内与論に対しても
「参戦せず」
と発言してたルーズベルトですが、1941年8月でのチャーチル・イギリス首相(当時)に対し会談で
「あと数カ月は、日本という赤児をあやすつもりだ」
と語り、既に『対日参戦』への意欲があった事を伺わせてます。


では何故、アメリカ合衆国が対日戦争をしたがってたのか? それが実は意外に思われるかも知れませんが
満州での利権対立
だったのです。
当時、まだ列強各国が植民地をアジアを含め世界各地に持ってたのですが、アメリカ合衆国はフィリピン以外、アジアに植民地を持っていませんでした。
そこで目を付けたのが満州だったのです。 しかし日本が先に『満州国』と言う傀儡政権を樹立してしまいました。
当然ながらアメリカ合衆国としては、これが面白い筈がありません。
(これとは別に国際連盟で日本に対する決議で42対1の大差で日本の満州に対する行いが非難されましたが、決議の上では非難されたものの日本の満州(朝鮮半島含む)に対するインフラ整備等の政策自体には概ね高評価を得てたそうです)
おまけに満州以外にもアジアに日本の権益が拡大する事を嫌がったアメリカ合衆国として、その封じ込めを行うのは当然の流れでしょう。 
俗に言う『ABCD(アメリカ合衆国・大英帝国・中華民国・オランダ王国)包囲網』を形成し、これ以上の日本の影響力拡大を抑止しようと試みます。 が、収まる気配が無いので『ハルノート』を突きつけ、更に日本を追い詰め戦争開始へと画策したのです。

 
そして有名な『真珠湾攻撃』へと歴史は進むのですが、これに関してルーズベルトは予め知ってたと言う説があります。
『騙し打ち』をアピールすれば米国世論は一気に第二次大戦参戦へと流れると踏んだのでしょう。

「その割に真珠湾での被害が大きすぎないかい?」
……これは『誤算』だったのでしょう(苦笑) まさか『馬鹿にしてた黄色い猿』が浅深度魚雷を開発し、鹿児島・錦江湾での猛訓練でそれをモノにして攻撃を成功させるとは思っても見なかったのでしょう――

空母を予め『哨戒』の名の元に真珠湾を出航させてたのは、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知ってたって根拠なのですが、それを信じるか信じないかは貴方次第(笑)



そしてソビエトへの過大な譲歩が冷戦対立への一因ともなったと言われてます。
(現に北方領土問題も、ルーズベルトとスターリンの約束の結末な訳で)

市丸利之助海軍中将が硫黄島の戦いで残した『ルーズベルトニ与フル書』で
「戦後(思想の違う)スターリンと、どうやって戦後を支配するの?(要約)」
と予見してますが、全くその通りになったのは皮肉以外の何物でも無いと思いますね。

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