兎月庵日記

五句三十一音詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。衰退と復活、上記視点から五七五七七の未来図を航行しています。

みんな忙しい

2024-10-26 21:34:06 | 日記

昨日来るのが遅かった娘と孫は水泳が終わると早く帰った。今日は学校で映画会なのだそうだ。洗濯物を干す。「短歌人」令和7年1月号の作品を妻に印刷してもらう。なんとかワードに変えて成功といったところである。歩数は2,127歩だった。

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資料が語る一本亭芙蓉花

   三、蕪村と大魯

 蕪村から大魯宛ての書簡を抄出する。安永二年十月二十一日付(『蕪村書簡集』岩波文庫)。蕪村五十八歳、大魯は四十四歳か。この年、大坂で蘆陰舎を結ぶ。書簡に登場する芙蓉花は五十三歳。なお「あしのかげ」の伝本はない。

  あしのかげ跋の事、御気に入候よし大慶仕候。此間無為庵(むいあん)も上京にて物語致(いたし)候。あしのかげ、序跋を具足(ぐそく)致候は甚(はなはだ)うつとう敷(しく)候故(ゆえ)、やはり序ばかりにて跋はいらぬものと存候。いかにも跋なきが可然(しかるべく)候。右の跋を御用(もち)ひなされ候て随分調(ととの)ひ申候。「序かいてよともとむ」と書替(かきかえ)候て至極に候。尤(もつと)も序は一本亭かかれ候よし伝承(つたえうけたまわり)候。一本亭も狂歌の先生の由、さ候て誹諧の序にはとり合ひ如何(いかが)と存候。一本亭序をかゝれくるしからぬ事に候故(ゆえ)、愚が序の次にまたかかれ候て可然(しかるべくと)存候。畢竟(ひつきよう)、一本亭の御せわの事に候故、随分可然候。いか様(よう)とも御思召(おんおぼしめし)次第に候へども、無為(むい)の了簡(りようけん)もおもしろく候故(ゆえ)御相談に及び候

 『蕪村俳句集』(岩波文庫)から引く。「*安永四、五」とあるから蕪村六十歳から六十一歳、芙蓉花は五十五歳から五十六歳であろう。

       浪花の一本亭に訪(とは)れて
  粽(ちまき)解(とい)て芦(あし)吹(ふく)風の音聞(きか)ん 

 杉山虹泉が著者兼発行人の『俳人吉分大魯』は印刷所が徳島県教育会印刷部となっている。その「吉分大魯略譜」によると「阿波藩に禄仕し新蔵奉行をしていた」明和三年三十七歳「藩用の為大阪へ出張中、遊女と駈落事件をおこし、そのため禄二〇〇石取消の罰をうける」「致仕し家族を伴い出郷」安永二年四十四歳「浪花に立寄ったまま過書町長月庵に入り、芦陰舎を結び、馬南を大魯と改号す」安永六年四十八歳「五月、芦陰舎を閉じ、感懐八句を詠じ、浪華を去る」。
 次の句がある。芙蓉花五十七歳であった。

     難波を出る日、一本亭の賢息野外まで送られける其すがたさへ我にひかれてかなしく
  はるれどもさつきの簑の雫かな

 「賢息」とは松涛梅郷であろう。矢島渚男は『蕪村の周辺』(角川書店)の中で「大魯には気性の激しさに加えて、傲慢な一面もあったに相違ない。彼の自負心は多くの門人たちに薄気味のわるい印象を与えていたのであろう。彼の舌鋒は経済的庇護者に対してさえ手加減がなかった。彼らに金銭的援助をかさに着たような言動が見られたならば彼のいらだちは一層強まったのではないか。後年大坂の東菑、兵庫の士川らに対してもその形迹をのこしている」「前非を悔いている大魯ではあったが、『友どち』は冷たく、出立の日見送ってくれたのは芙蓉花の息子一人のみであった」「大魯の支援者、弟子となった芙蓉花は友人たちをはばかって代わりに息子を遣わしたものであろうか。寂しい別離であった」と書いている。