「短歌人」令和7年1月号の作品を作る。整理整頓を続ける。一つは住所録のため、もある。歌集等、今年もらったものが出てきた(印象としては忘れられた存在だったが)。歩数は1,709歩だった。
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資料が語る一本亭芙蓉花
一 概略
はじめに一本亭芙蓉花の概略を知るために『日本古典文学大辞典』(岩波書店)第一巻から「一本亭芙蓉花」を引く。書いているのは多治比郁夫である。
狂歌作者。姓は松濤氏。通称は平野屋清兵衛。初め開花楼栗里と号した。大阪の人、享保六年(一七二一)に生まれ、天明三年(一七八三)正月二十六日、江戸で没、享年六十三歳〈墓碑銘〉。墓所は浅草西福寺、また大阪天王寺の新清水寺。
【事蹟】栗柯亭木端の門に入り栗里と号したが、のち嵯峨法輪寺の大僧都竜尊の命名で芙蓉花と改号した。宝暦八年(一七五八)油煙斎貞柳の二十五回忌にあたり、新清水寺に貞柳の墓碑を建立、また貞柳の狂歌を集めて『狂歌拾遺土産』を出版した。その後も、『暁月房酒百首』(明和八年(一七七一)刊)、『貞徳狂歌集』(柏原屋佐兵衛の蔵版目録に所載)を編刊して古狂歌集の整理に努め、また家集『狂歌難波土産』を編集するなど、着々と大阪の狂歌壇に地歩を固めた。一方、大魯の蘆陰舎に入って俳諧に親しみ、蕪村一派と交渉をもった。天明初年、大阪での活動にあきたらず、江戸へ下る。翌二年、浅草の観音堂に、如意宝珠の自画に「磨いたら磨いただけは光るなり性根玉でも何の玉でも」の一首を添えた絵馬を奉納し、世人の嘲笑を買ったことが、蜀山人(大田南畝)の『俗耳鼓吹』などに伝えられる。芙蓉花の抱負は、新興の機運にあった江戸の狂歌壇では受け入れられなかったようであるが、それでも、一本亭の門下は大阪を中心に広い範囲に繁栄した。没後、『一本亭追福狂歌集』が一花亭守由・一封亭朶雲らによって刊行された。【著作】編著書の多くは自家蔵版で、在阪画家の挿絵を入れて豪華である。前記のほか、安永九年(一七八〇)刊『狂歌両節東海道』、天明元年刊『狂歌五題集』。
よく纏まっているが江戸下り以降に問題点を見る。まず如意宝珠の歌だが〈みかいたらミかいたゝけにひかるなり性根たまてもなにの玉ても〉が正しい。辞典中の表記は菅竹浦著『近世狂歌史』(昭和十五年)と同じである。偶然かも知れないし、もしかしたら菅の芙蓉花論を引き継いでいるのかも知れない。たとえば「世人の嘲笑を買った」もそうだが、人の見方は様々、一方に偏ってはいないだろうか。加護狂歌(如意宝珠)の歌は一万枚書いて、各所に配っているのである。その噂を聞いて寛永寺に招いたのが輪王寺宮である。なお『狂歌五題集』を所蔵しているのは京都大学の図書館だけである。書誌詳細によると千種庵諸持・チグサアンモロモチ(一七九一~一八五八)の蔵書であったらしい。四世絵馬屋額輔(生没年不明)の『狂歌人物誌』(『江戸狂歌本選集』第十五巻)に「諸持は姓勝田氏にして名諸持通称を雄輔と云松蘿又芙蓉花等の別号あり浅草誓願寺前に住し土地の庄館をつとむ」
とある。『世界大百科事典』で補足すると千種庵諸持は一中節宇治派の初世「宇治紫文(うじしぶん)」であるが、注目したいのは芙蓉花の没後の出生で「浅草材木町の名主勝田権左衛門」が芙蓉花を名のっていることである。また堀直格(一八〇八~一八八〇)の『扶桑名画伝』には「尤モ美玉ノ詠、人口ニ膾炙ス、自画賛有リ、多クハ、美玉ノ詠ナリ」(東京藝術大学附属図書館)とある。『狂歌東乃春』や『一本亭追福狂歌集』が伝える情報も参考にすべきであろう。
畢竟、芙蓉花の狂歌と南畝らの天明狂歌は相容れない別物なのである。
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