兎月庵日記

五句三十一音詩は名称を変えつつ時代の波をくぐり抜けてきた。衰退と復活、上記視点から五七五七七の未来図を航行しています。

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2024-10-25 20:30:12 | 日記

整理整頓の一環として頂いた歌集を読む。ホームページより「書架新風」上下を抹消する。Xで、気ままに、気力も体力もないので、載せられたら載せていく。そんな感じ、つもりである。歩数は2,007歩だった。

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資料が語る一本亭芙蓉花

   二、狂歌と天明狂歌の違い

 狂歌とは何か。本書の付論『現代語短歌と古典語短歌』の「A 五七五七七の名称」で述べているが歌の歴史すなわち五句三十一音詩史を出自とする文学である。『万葉集』は長歌に対する短歌、『古今和歌集』は漢詩に対する和歌、そして『明月記』が呼称の確認される狂歌である。また狂歌は『万葉集』の戯笑歌の系統とされるが、和歌が否定した、カバーしなかった幻の短歌史だともいえる。
 では天明狂歌とは何だったのか。梅本高節(生没年不明)の『狂歌師伝』(『江戸狂歌本選集』第十五巻)に次のような一節がある。

  (略)、他の文芸、美術の中心が、京阪より、江戸に移る時が来て、漸次に隆  昌を極め、百花の妍を競ふやうなときに方り、江戸風狂歌といふものが、新に勃興して、これより狂歌師と称へる者が、江戸に出来たのである。江戸風狂歌の勃興せる原因は、他にも有るであらうが、黄表紙と称へる、小説の流行が、確に其の原因の一である。黄表紙は、宝暦より安永の初までは、(2ウ)極めて幼稚なるので、児童の玩弄物であつたのが、安永の中葉から、春町、喜三二、全交、京伝等の戯作者が相踵いで起り、滑稽諷刺を主として、著作せるのみでなく、有産階級を揶揄したり、智識階級を翻弄したのが、当時の江戸人の意気に適つて、大流行を来したのであるが、江戸風狂歌は、殆、黄表紙と同時に勃興したもので、前に挙げた黄表紙の作者等は、孰れも狂歌師を兼て居たから、一部の黄表紙を圧縮したものが、三十一文字の江戸風狂歌となつて、世に顕はれたのだとも云ひ得ると想ふ。(3オ)

 形式が同じだけで、出自を異にする全くの別物なのである。「世人の嘲笑を買った」も、その内実は彼ら狂歌師の悪意しか見えてこない。

  金玉はみがいてみてもひかりなしまして屁玉は手にもとられず
                               大田南畝
  睾丸(きんたま)は磨いたとても光りなし、こんにやく玉と屁玉人だまス。
                         式亭三馬『浮世風呂』

一首目は山崎美成(やまざきよししげ)の手写本『俗耳鼓吹(ぞくじこすい)』(『大田南畝全集』第十巻)の欄外に「多稼翁当時(ソノカミ)の落首。金玉はみがいてみてもひかりなしまして屁玉は手にもとられず」とある。「多稼翁」の「多稼」は『詩経雅頌(しきょうがしょう)1』(東洋文庫)の「大田」という詩から来ている(最初の章の四句目の「覃」は南畝の本名、一句目に「大田」、五句目に「南畝」とある)。さらに平秩東作の『狂歌師細見』では「性根玉や黒右衛門」とされている。とてもではないけれども真っ当な文学集団とは思えない。



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