無駄な独り言を言いながら、生を終えます

あまり閲覧されないことをむしろ望む、変なブログです。

キャプテン・ファンタスティック、そしてピアノぜめ

2022-08-26 16:23:00 | 日記
「父親が暴君だった家庭のムチャクチャな話」というのは、今までに雑誌やネットなどで見聞きしたことがないわけではなく、うちだけじゃないんだな、と若干共感することもありました。特に、石原慎太郎の息子たちが語っていた「家での父親のムチャクチャな厳しさ」は、うちにやや近い気もしました。慎太郎とうちの父とでは、同年代とはいえ有名度が全然違うし、また向こうは右で、うちの父は左寄りと、思想も全然違うのですが、専制君主としての父親が、子供の人格無視で暴言を浴びせる、という現象じたいは同じに思えました。
しかし、「いや、でも甘いよ、慎太郎は家にずっといるわけじゃないでしょう? うちの父は24時間家にいるんだよ! その大変さはわたしにしかわからないんだよ!」とも思うのでした。

2017年の映画”Captain Fantastic”(邦題『はじまりの旅』)というのを観たとき、わっ、これは思想的にもうちに近い!と思いました。この映画の主人公である極端偏向父さんは、森の中の家で、6人の子供に独自の教育をしています。子供たちを学校には行かせず、チョムスキーを読ませ、外国語を多言語教え、ギターを弾いて歌を歌わせ、身体を鍛えさせる。アンチ消費主義だから子供はホットドッグもコーラも知らない。
タイトルの「キャプテン・ファンタスティック」というのは、「素晴らしいキャプテン」というよりは「現実離れしたキャプテン」という皮肉をこめた表現なのではないかと思います。
子供がたった一人の我が家と違って、この映画では六人もの子供たちと父親が(お母さんは入院していて不在。)コミューンのような雰囲気で楽しそうに暮らしています。虐待はありません。だからまた「この程度じゃ甘いよ!」ともわたしは感じたのですが。でも、たいへん面白く観ました。カンヌ映画祭「ある視点」監督賞を受賞したとてもいい映画なので、観ていない方は是非ご覧ください。

うちの父も、語学は英語含め四か国語にわたって訳書を出していたし、音楽ではピアノが割とうまい他、フルート、チェロなどにも手を出していた。というあたりが、キャプテン・ファンタスティックと似た雰囲気ですが、でも父は「子供に教える」ことは出来ませんでした。「すぐ怒っちゃう」からです。教え下手なのです。

父は文学の道に行きましたが、実は音楽をやりたかったらしいのです。だからって娘に夢を託したりしないでほしかった…が、とにかく、本人の意志とは関係なく、気づいたらわたしはピアノを習わされていました。「すぐ怒っちゃう」父にではなく、女性の先生に師事。
町のピアノ教室みたいなところではなく(なんだか専門的にやらせたかったらしく)、わたし以外には弟子を取っていないピアニストの所に通わされたのです。バスで三十分ぐらいかかるお宅で、しかも週三回も行かされていました。三歳から十歳ぐらいまで通っていました。

父もピアノを弾くものですから、家でわたしが練習していると何かと叱られる場面が多く、虐待ネタの多くは実はピアノに関連したものだった気がします。
そして十歳ぐらいの時、父がなんでだか怒りをヒートアップさせ、その勢いで、「お前なんか才能ないからやめちまえ!!」と怒鳴られました。
そこで、わたしのピアノ人生は、あっけなく終了しました。

まあ、本当に才能がなかったのだと思います。

やめる事になったとき、最後にピアノの先生が、
「これからは『趣味』でおやりになったらいいじゃないの。」
と捨て台詞のように言ったのが、忘れられません。
それ以来、わたしの中に「趣味」という言葉がネガティブ・ワードとしてインプットされ、わたしは趣味を持つのが怖い人間になってしまいました。

音楽は今でも好きなわたしですが、クラシック音楽や、特にピアノ曲は、PTSDになるので絶対に聞きません。お店なんかのBGMでピアノ曲が流れていると、すぐその店を出てしまいますね。


カルト、コミューン、そして豪華客船

2022-08-25 19:28:00 | 日記
親が偏っているといえば、最近では、安倍元総理暗殺事件をきっかけに統一教会騒ぎが起こり、「カルト二世の問題」なんていうのも話題に上ったりしました。「親が偏ってて人生めちゃくちゃにされたぜ!」という話です。(わたしは、今回の容疑者がチャチな手作り銃で人を殺せたということを信じていないし、統一教会に恨みがある容疑者なのになぜかターゲットを元総理に変えたという無理のあるストーリーも信じていない。マスコミが反統一教会の話題にめっちゃ集中して報道しているのは何か他に報道したくないことがあるからだということは信じている。…派なのですが、その話は今は関係ないので、置いておきます。)

「うちの子にうち流のしつけをして何が悪い!」という我が家の、というか父の考え方は、「うちは江保場の証人を信仰しているので、うちの子に輸血はさせません!」というのと同じ問題をはらんでいると思います。子供が自分で選択したのではないことを押し付ける、という点が共通しているではありませんか。
でも、そういうのを見かねた人が、仮に「偏った家庭環境はいけないね。もっと普通にしようよ。」と言ってくれたとしても、たぶんうちの父はムキになって「じゃあ、その『普通』って何だ? 戦後民主主義教育? 日本政府? GHQ? おじいちゃんの代からCIA?」みたいなことを言い返したかもしれません。

子供は、偏った個人が家庭に閉じ込めないで、いっそキブツみたいなところでみんなで育てようよ、という、これまた偏った考えもあるかもしれませんが、それはそれでディストピアでしょう。

小学校3、4年ぐらいの時、わたしはヒッピーのコミューンに憧れを抱きました。
父が文筆業だったので、うちにはしじゅう献本が送られてきていて、その中の一冊『地球の上に生きる』という絵入りの大判の本を、これあげるよ、とわたしは父にもらったのです。絵が入っているから子供向きだ、ぐらいに思って与えたのかもしれません。が、内容は、「全裸で暮らすコミューンの生活」! アリシアさんというヒッピーの方の作でした。
自給自足、なんでも手作り、お金はいらない、洋服などは物々交換、AUMと唱えて瞑想しましょう、土に穴を掘って排泄し、排泄物も自然に返し農業に役立てましょう、など…「こんな共同体が世の中にあるのか!」とわたしは驚きました。本の中には、全裸の大人と手を繋いだ小さな子供(やっぱり全裸)の姿も描かれていましたが、どこから見ても学校に通っているようには見えませんでした。
なんて自由そうな! 学校でいじめを受け、家庭では虐待を受け、と、どこにも逃げ場のないわたしは「親から離れて学校もやめて、こんなグループに入って、ギターを弾いたり歌を歌ったりして大勢で楽しく暮らしせたら」と本気で思いました。
それで、小学校で配られた「将来の夢」というアンケートに「ヒッピーになりたい。」と書いたら、担任に、赤字で大きなバツ印をつけられて返されてしまいました。
あれ? 「ヒッピー」は学校で怒られることだったの?

大人になってから、映画『イージーライダー』をビデオで見たら、ちょっとだけコミューンが出てくる場面がありました(これは裸ではなく服を着て生活しているところでした)が、貧乏くさいだけで少しも楽しそうではなく、なんだ、こういうのが実態だったんだ、と失望?しました。もちろん、コミューンといってもいろいろあったでしょうから、中には素晴らしい所もあったのかもしれませんが??

ここではないどこかに行きたい…
どこでもいい、家でも学校でもないどこかに行って暮らしたい…
それが、日々繰り返される、わたしの心の声でした。
ここから出ていきたい…

出ていけ!
と母の怒鳴り声。
実はしょっちゅう、家から追い出されていたわたし…。しかし、それはわたしが望んだ家出とは全然違う、いつもの「叱責のあげくの締め出し」でした。母に突き飛ばされ、ドアから押し出され、ガチャっと玄関の鍵を閉められてしまうのです。
マンションの廊下は誰が通るかわからないので、あまりみっともない騒ぎもできず、わたしは行き先もないのにマンションを出て、近所を歩きまわったり、公園に行ってみたりします。が、一人ぼっちではそう外での時間つぶしもできず、すごすごとマンションに戻ってきます。
家のピンポンを押すと、細くドアが開き、母の鬼の形相が半分だけ見えます。わたしはすかさず、
「ごめんなさい、今度から自分の頭で考えてハキハキ返事をして、言われる前に率先して物事を…」
反省の色なし!
母はそう怒鳴ると、またバタンとドアを閉め、鍵をかけます。
また締め出されたわたしは、マンションの廊下でただ立っているのもご近所の目があって恥ずかしいので、仕方なく、物置きから玄関掃除用のホウキを出して、廊下を掃くふりをしながら時間を潰していました。
マンションの同じ階の隣の隣に住む上品な老婦人が通ったので、ホウキを持ったわたしは、こんにちは、と挨拶しました。
「いつもお掃除をしていて、えらいわねえ。」
老婦人にわたしは、そう言われてしまいました。(この人は、私がいつも締め出されているのを承知で、わざとそう言っているのだろうか? それとも本気で掃除していると思い込んで褒めているのか? どっち?)とわたしは暗く考えこみました。

外掃除のふりも長続きせず、間が持たなくなると、わたしはマンションの屋上に行きました。
屋上も、実はいつ誰が来るかわからなかった(洗濯物干し場があった)ので、誰にも見つからないように、「クーリングタワー」というのか、ダクトだかなんかがある空間のてっぺんに登って、設備のはざまに隠れていました。
そこから遠くの風景を見ていたある晴れた日の午後、地平線のあたりに、急に、

青い海が見えました。
あっ、うちってこんなに海の近くだったんだ!
よく見ると、青い海に、豪華客船のようなものが停泊しているのが見えました。
すごい! すごい!

精神医学に詳しいわけでも何でもない素人のわたしですが、後年考えるに、この「マンションの屋上から海が見えた」件は、解離性障害の幻覚だったのではないかと思います。この時以外、あとにも先にも、屋上から海なんか見えた事はなく、地理的に考えても絶対に、現実に海がそこに存在するなんて有り得ない。白日夢とか幻覚とかいうことで間違いないでしょう。
絶望すると人間にはこんなことも起こる、という良い例かもしれません。
もっとも、わたしは人生でこの時以外に幻覚を見たことは一度もないので、本物の解離性障害ではないかも、です。


ハードコア虐待と二重人格

2022-08-24 20:48:00 | 日記
こうして子供時代の我が家の虐待の実態を書こうと思いたったのは、「暴露」ばやりの昨今、わたしだって匿名の暴露ぐらいしてもいいじゃないか!と思ったからです。だからガーシーに感謝?
いや、ガーシーにとって芸能人等のスキャンダルを暴露する動機は、動画再生の(今はサロンの?)収益や売名なのであって個人的動機なんてないのでしょうが、わたしには、自分が育ってきた家庭環境に対して積年の恨みがある。
しかし、だからといって、死んだ文化人である父の名誉を、今さら実の娘が棄損するわけにはいきません。また、わたし自身も変に晩節を汚すわけにはいかない(晩節って?まあ57歳だからそうですよね)ので、自分の名前を出して本を書くよりは、匿名で、目立たないようにネットの片隅でやる方がいい、という結論になりました。

出版社から著書を出す経験を何度もしてきましたが、今回わたしが書きたいことは到底、本にできないような内容を多く含むので、出版社の企画を通るとは思えません。また、万一通ったとしても、センサーシップに遠慮しながら薄めた内容にし、インパクトのない本を初版数千部のわずかな収入のために(本って大ヒット作にならない限り儲からないものですから)書くなんて御免です。それに、わたしは今、零細ながら会社を経営しているので、物を書いてお金を貰う必要は別にないのです。
だから、本ではなく、ブログという媒体を使って、無料で公開する。ただし匿名。そのようにさせていただいております。
ここでお付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。

本題に戻ると:
「虐待」としてニュースに出るレベルの、主にヤンキー系の家庭で起こるような暴力事件や致死事件は、残虐性が高いぶん、継続性は薄い、という特徴があるかと思います。(シングルマザーの同棲相手の男が、同居することになった血がつながっていない子にDVを振るうパターンが、大変よくあるようです。胸が痛みます。)憂さ晴らし的に、子供を暴力衝動のはけ口にする輩の犯行は、短期間のうちに発覚しやすいのではないかと推測します。
要は、深い考えがあってやっているわけではない場合は、すぐバレる、ということです。

一方、うちのように、衝動的ではない、なにか意図があってやっているような場合は、より陰湿だと思います。「うちはうち流のしつけをしているのだ!」と、親はあくまで自分が正義だと思っているのです。自分の正しい思想を貫くためには、暴力も辞さない、というその考え方は、まるで過激派セクトのようです。
そういうハードコアな虐待は、ひそかに長年月続いてしまい、単純なヤンキータイプの、暴力のための暴力より発見しにくいのかもしれません。

ここまでの文章だと、父が、悪魔のような極悪冷酷テロリストみたいに読めてしまうかもしれません。
が、実は、父は二重人格みたいな人で、怒る時は暗く不機嫌になって怒鳴りちらす一方、明るい時はとても明るくてユーモアもありました。外の人には、彼の愉快で楽しい、博覧強記で話が上手、時には駄洒落まで言って笑わせるような「良い」ところしか見えない…。
だから、我が家が虐待家庭だなどとみんな全く気づかなかったのです。

今考えると、父は軽い「双極性障害(昔で言う躁鬱病)」だったのではないかとも推理できます。まあ、別に「お金を浪費する」的なエピソードはなかったので、そうだとしてもごく軽度だったとは思います。ただ、不機嫌そうにふさぎ込んで部屋に閉じこもっている時と、陽気にふざけている時が周期的に訪れていたのは確かです。

陰気な時、父はよく「不愉快だ!」と言いました。この口癖が出たあとは禄なことがなく、予定されていた旅行に突然行かないことになるなど、楽しいはずの企画が「ぶっ潰れ」になりました。
「また城南にぶっ潰された!」と父はそういう時、大声で怒鳴るのでした。
(いや、「やめだやめだ、全部やめだ!」と中止を宣告したのは、お父さん、自分では⁈)とわたしは心の中で叫びます。しかし、なぜだか「城南がぶっ潰した」といつもわたしが悪者にされるのでした。そうやって、いわれのない罪悪感を私に植え付ける。何もかも、「不愉快」にさせるわたしが悪いのだと。
その結果、(あー、そうですかそうですか、みんなわたしが悪いんですよね?)と言うようないじけた、ヤケクソな心理状態にさせられます。
それで、意味なく謝罪させられたりするのですが、普通の家みたいに「ごめんなさい」と一言言っただけで魔法のように許される事は絶対になく、
「どう直すのか、言え!」と、長い答弁を求められます。
「えっと、今度から自分の頭で考えて、ハキハキ返事をします。それで、言われるよりも前に…」
わたしは必死で、親が喜びそうなセリフを唱えるのですが、しかし、必ずダメ出しの怒号が飛んできて、
「決まり文句はやめろ! 紋切り型を使うな!」
と全否定されます。
そういうこんにゃく問答みたいなやり取りが、1時間も2時間も平気で続くのです。

かと思うと、上機嫌な時は、テレビから流れる「ピンクパンサーのテーマ」に合わせて下手くそなステップを踏んで踊ってみせたり、なんてふざけている父なんですけどね。








一人っ子政策

2022-08-23 19:30:00 | 日記
わたし(ニックネーム:城南)という子供は、独裁者のような父と、父に完全服従の暴力担当である母、という二人の大人に毎日ひどい目に遭いながら、「あーあ、一人ぼっちだなあ…」「世界中に、わたしのこの境遇を理解してくれる人なんて一人もいないんだなあ…」と絶望して生きていました。せめて一人っ子ではなくきょうだいでもいれば——家の中に年齢の近い子供が他にもいれば、わたし一人で集中攻撃を受けずに済むだろうに…。

しかし、「子供は一人っ子が理想的!」というのが我が家のポリシーだったので、いくら夢見ても弟や妹が到来することなどありませんでした。一人っ子というものがいかにいいものか、素晴らしいものか、が我が家では日々力説されており、その根拠は「兄弟は諸悪の根源」だからだそう。父は八人きょうだいの五男で末っ子(ゴナン、って、現代では口で発音してもにわかには理解できない感じですが)、母は四人きょうだい、で共に兄弟姉妹には厭な思いをしてきたらしい。詳しい事情は知りませんが、なんだかとにかく、両親とも兄弟関係を忌み嫌っていました。
「一人っ子が一番幸せなんだよー。」と、さも自分たちが賢明で思いやりあふれているかのように主張する両親でしたが、小学生ぐらいになって知恵がついてきたわたしの目には、きょうだいがいる友達が苦悩しているようには到底見えませんでしたし、「諸悪の根源」だか何だか知らないが、兄弟姉妹を蛇蝎の如く嫌っている友達なんて、全く見たことがありませんでした。
むしろ、きょうだいがいる人たち、楽しそうだ。
彼らは、毎日泣いているわたしとは別次元・別世界の天国に暮らしているように見えました。

さかのぼって、まだ幼稚園の頃、わたしは「世の中の子供はみんな、母親に両腕をつかまれて引きずり回され、ぶたれたり、布団叩きでお尻を叩かれたり、押し入れに閉じ込められたりして毎日泣いているのだ」と思いこんでいました。
しかし、ふとした幼稚園児どうしの会話から、他の子は「毎日泣いている」わけでもないし、「親にぶたれている」わけでもない、ということに気づいたのです。
これは、わたしにとって、天地がひっくり返るようなとんでもないリベレーションでした。
なんだ、こんなの、わたしだけなんじゃないか!
怒られもぶたれもせず、笑って生きてるやつらがいるなんて、ずるいじゃないか!

空想に逃避するしかなかった幼稚園時代のわたしは、頭の中でいつも、続きものの連載小説みたいな「おはなし」を考えていました。
題名は、『城南と冒険の旅』。
わたしが乳母車かリヤカーのようなものに乗せられ、それを、空想の「兄」たちが引っ張ってくれて、きょうだいみんなで世界中を旅する、という話です。
そのストーリーの中では、兄たちは5、6人いて、わたしたちに家はありませんでした。リヤカーを引いて世界を彷徨い続ける、ロードムービーみたいな話で、兄たちは子供ながらみんな紳士的で、どこまでもわたしに優しいのでした。

のち、小学生時代に、わたしの「きょうだいへの憧れ」にぴったりはまった作品が、川崎のぼる先生の『てんとう虫の歌』でした。
(アニメを見せてくれない家でしたが、漫画は読めたのです。)
わたしにもたくさんの兄弟姉妹がいたら、という妄想を仮託して、「一、ニ、三、四、五、六、七」の字が名前に入ったきょうだいを『てんとう虫』の真似をして(本家てんとう虫では月火水木金土日なんですが)作り、小説のようなものを書いたりしました。
見ようによっては「クリエイティブな子」みたいに見えるかもしれませんが、その実、おもちゃも買ってもらえないから創作の他に娯楽がない哀れな子供、ってだけだったのです。それに、ただパクってただけですし。

我が家の偏った標語としては、「兄弟は諸悪の根源」のほかに、

「シニカル(冷笑的)であれ。」
というのもありました。
小学校低学年のわたしに言うんですよ?
世界広しといえども、まだ幼い子供を捕まえて「冷笑的であれ。」って教えこむ親は、うちの父ぐらいではなかったかと思います。足リバンとかアイシスとかが幼い子たちに銃の撃ち方を教えるような、そういう雰囲気さえする「偏向」です。
明るく楽しく、みたいな言い草は、我が家では「愚劣」「紋切り型(ステレオタイプの意)」などとバッサリ切り捨てられるのでした。


ご近所さん、外人さん、愛人さん

2022-08-22 21:26:00 | 日記
ここまで読んで下さった方の中には、「虐待家庭とか言ってるけど、たいして虐待されてなかったんでは? 思い込みでは?」という印象を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。
だからちょっと、ここで客観的な事実(わたしの主観的訴えではないと納得してもらえそうな要素)を出してきましょう。

うちはマンション住まいだったのですが、両隣の住人が異常に何度も変わっていました。
どちらのお隣さんも、だいたい三年か四年以内には引っ越してしまいます。
分譲マンションなのに、ですよ!

その理由は、今考えたら、うちがあまりにうるさかったからだと思います。
フル絶叫でわたしを罵倒する、あの声の大きさは、尋常ではなかった…。
また、わたしも暴力を振るわれてギャーギャー泣いたりしていましたから、日々、三人の絶叫劇場です。
阿鼻叫喚はご近所につつぬけだったはずですが、「あの子かわいそうだな、児童相談所に通報しよう」などという人は誰もおらず、みんな無言で引っ越していきました。

怒声に加え、飲み会騒音もありました。
うちの父が自宅で仕事をする文筆業だったため、我が家にはしょっちゅう「お客さん」が来ていました。昼間、純粋に打ち合わせに来るだけの編集者の訪問は無害なのですが、夜遅くまで飲んで談笑していく人たちもいて、あれはかなり近所迷惑だったのではないでしょうか。

そのように、うちの機能は「父の仕事場・兼・接待所(笑)」というのが主であって、子供は結構どうでもよかったのかもしれません。だから、子育て中心の一般的お勤め人家庭のように、子供に心ある対応など、「できないし、する気もない」といったところだったのでしょう。

わたしがまだ6、7歳ぐらいの頃、おたふく風邪にかかって、顔が四角形みたいに腫れ、寝込んでいたことがありました。
その腫れが最悪だった晩、うちに詩人のYさんが遊びに来ていました。
夜中、Yさんと飲んで酔っ払っていた父は、おたふくにかかった娘の顔が面白いから見せてあげる、となったのでしょう、
「おーい、城南、出てきなさい!」
と、寝ていたわたしを叩き起こしました。
わたしは子供部屋からパジャマ姿でヨロヨロ出てきて、「こんばんは。(ペコリ)」とYさんに挨拶させられる羽目に。
Yさんと父が、二人とも爆笑していた様子が、今でも忘れられません。
おたふく風邪の時に酔客の見せ物になった子供、というのは世界広しといえども、そう多くはいないのではないでしょうか。

ご近所に話を戻すと、

うちの隣に、ペロシさん(仮名)というイタリア系アメリカ人の国際結婚夫婦が暮らしていたことがありました。
父はいつも、ペロシさんのことを話すとき「隣のアメていが…」と言っていて、幼いわたしは、「アメてい」というのが「アメリカ人さん」みたいな意味だと思いこんでいました。(「てい」の部分が敬称、みたいな解釈?)

前にも書いたように、父は左翼くさい人で、「アメリカ帝国主義」の略、「アメ帝」という用語を実は使っていたのでした。(現在でも、わたしの嫌いな抽核派のyoutube動画「前進チャ●ネル」などでいまだ「日帝」「米帝」とか言っています←嫌いと言いながら見ているらしい!)
しかし、
子供のわたしはそんなことはつゆ知らず、「テレビに出ていたアメていがね…」というように、幼稚園や小学校で「アメてい」という言葉を使いまくっていました。当然ですが友達や幼稚園教諭などから訂正されるはずもなく、わたしはかなり長い間、そのままその語を慣用していました。(後日、父本人が苦笑混じりに「その言葉はちょっと…」とたしなめてきて、本件は収束。)

さて、ペロシさん(仮名)が引っ越してしまったあとの隣室には、色白さん(仮名)という一人暮らしの女性が入居しました。子供のわたしは「おばさん」だと思っていましたが、今考えたらまだ三十代だったかもしれない、和風美人でした。
しかし、彼女は実は一人暮らしというのとちょっと違う、「愛人」の人で、彼女のもとには部屋の持ち主である年配の「社長さん」がときどき来ていました。
その事実を知った両親は、好奇心と悪意と差別意識に満ちた陰口を叩き始めました。「三号室の二号」だの「ソレシャ上がり(昔、芸者のことを婉曲に言う時に「それ」者とか言ったのだそう。)」だの…実に口汚かったです。
特に母は、「専業主婦は日陰ものより上だ!」みたいにマウンティングする気まんまんでした。そしてなぜか母は、わたしを使って色白さんの家に、「おすそわけ届け攻撃」をさせるのでした。
それも、やたらと頻繁に!

「城南、これを色白さんに持っていきなさい。」
と命令されたわたしは、お菓子やら何やらを持たされ、隣の家に一人でピンポンと訪ねていかざるを得ない…。
ノーメイクで出てきた色白さんは、かすかに困惑ぎみの表情をしていましたが、小学生のわたしに罪はないことはわかっていたのでしょう、いつも優しく対応してくれました。(ごめんね、色白さん。)とわたしは心の中で思っていました。
無意味なお届けをさせた母は、わたしが戻ってくると「色白さんどうだった?」と好奇心丸出しで訊いてきました。ありがとうって言ってたよ、とわたしは短く答えるのですが、正直、母が鬱陶しくてしょうがなかったです。きっとわたしが「急に来られて不意をつかれた色白さんは、ノーメイクで結構ブスだったよ」的なことでも言えば母は喜んだのでしょうが、母が満足するためだけになんで自分と色白さんが二人して困らなければいけないのか?? 本当に理解できませんでした。
色白さんは、母のような意地悪なキチ●イとは比べものにならない、人柄も外見も優れた立派な人でした。
色白さん、今でもどこかで元気に生きているのかなあ…。