以前ブログに書いたランドマークエデュケーションのブレークスルーテクノロジーコースについて少し書いてみる。
宗教との関わり(4)
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=e69383dd196398301ae3cdf65c30cb01&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTUlQUUlOTclRTYlOTUlOTkmcD0x
このコースは3日と一晩、3日間は朝から夜9時頃まで、内容はひたすら会話することだ。
コースをリードするディレクターがテーマを投げかけて、なにかシェアしたい人は挙手してディレクターとやり取り。
その内容は一般的な事から、ディレクターへの確認、今の話しの感想、時にはプライベートな体験まで、一見脈絡なく続く。
それを他の参加者は聞いている。
対話が打ち切られると、ディレクターは今の対話について会話して下さい。一人で心の中で、隣の人と、5人一組となって、等。
そして、その後、またディレクターは問いかける。
今の会話で、シェアしたい人はいますか?
最初にシェアした人、他の人が次々と挙手をして話し始める。
そんな風なんだ。
集団で行う自問自答、禅問答。
個人的な悩みを話した人は最後にディレクターから問われる。
「あなたは、それを持っていたいですか?」
シェアした人が、なお、ああだこうだ言い始めるとディレクターは無慈悲に言う。
「では、もうしばらく、そこに自分を浸しておいてください」(笑)
もちろん、嫌な思い出、辛い思い出など持っていたい人はいない。
でも、本当にそうだろうか?
いつまでも、持ち続けたいと思っていないだろうか?
なぜって、それは、その思い出の為に自分はこうなったと正当化したいから、言い訳にしたいから、自分をペテンにかけている。
思い出を思い出、過去のものとして、現在と切り離すことができないと先へ進めない。
過去のものと出来た時、「完了した」と言う。
では、本当に「完了」できたのか?検証できるのか?
そんなものはない。
自分で自分に宣言するということなんだ。
これは、スピ界隈で言う、「手放す」と同じ事と私は解釈している。
「手放し」を理論的に進めるための技術。だからテクノロジーと言っている。
何だか、今、今、シェアする必要があると思ったのでブログに書く。
私にはまだ完了できていない思い出がいくつもある。
その一つ。
中学1年の時の話しだ。
あるとき、いきなり緊急学級委員会でやり玉に挙がった。
ある生徒の体育館履き(運動靴)の底がナイフで切られて、その犯人が私だと言うんだ。
ご丁寧に証拠まで作ってあった。
もちろん、私はそんなことはしていない。
想像もできない。
人の持ち物を傷つけるなんてことは。
私は必死で違うと訴えたが、結局犯人は分からずじまいだし、他人がどう結論付けたかも分からない。
担任の先生はじっと聞いていて、最後にこう言った。
人には信念ってあるから...。
意味不明。
多分、先生には私の訴えは届いていたのだと思っているけれどもね。
このおかげで、私の中学生生活は地獄みたいだった。
私は内に籠った。
表向き、忘れたように振る舞い、明るくしてはいたけれども、もう誰のことも信じられなくなった。
あれから随分経つ。ほとんど忘れていた。
ところがね、ごく最近、思い出すようなことが起こったの。
誰かが私に成りすましていたんだよ。
私が今、やることを控えている事を私がしたみたいに捏造したの。
そのこと自体が重大な結果を招くとか、なぜ、そんなことが起こったのかとか、どんな理由で?とかは正直言って気にならないと言えばうそになるけれども、どうでも良い。
苛まされるのは、それをしたのは、多分私が敬愛している人なんだと思うから。
そんな人なら、敬愛するに値しない、離れるべき、と人は言うかも。
でも、それで私はいいんだろうか?
不完了が増えるだけ。
先へ進めない。
人を信じていたい。
人に誠実でありたい。
ここで、もう絶対に人を信じない、誠実なんてないんだと思ったら私の負けだ。
これから先だって、同じような事は起こるだろう。
でも、何度でもトライするパワフルさを持っていたい。
だから、ここで宣言する。
「完了する」
ビリー・ジョエルのこの曲は、あんまり好きな曲ではないけれども、今宵は深く浸ったので、もしよかった聴いてみてね。
Billy Joel - Honesty (from A Matter of Trust - The Bridge to Russia)
https://www.youtube.com/watch?v=24FUtxigtjs
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