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義和団の乱で活躍された柴五郎が、合気の源流会津ご出身とは、今回知りました。日本の誇りだな!

2012-10-27 | Japan Traditional culture日本の伝統文化
柴五郎 日英同盟の陰に公使館の籠城戦 2012.10.27 07:45 産経新聞


北京公使館に籠城した館員と居留民。2列目左から6人目が柴五郎=「明治の百年」 (講談社)

 柴五郎(1860~1945年)の名が歴史の表舞台に登場するのは、明治33年に清国で勃発した義和団の乱(北清事変)である。義和団の排外運動によって、各国の公使館員、武官、キリスト教徒避難民の総勢約4千人は、北京の公使館区域において55日間の籠城戦を余儀なくされた。

 この時、僅かの日本軍と各国の義勇隊を見事に統率、指揮して、4万人もの義和団の攻撃から公使館区域を守り抜いたのが駐在武官であった柴である。

 柴の働きは各国から称賛された。特に英国のマクドナルド公使は、「北京籠城の功績の半ばは特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と柴の功績をたたえ、ビクトリア女王に日本との同盟を強く進言した。日英同盟締結の陰には柴の存在があったのである。

 柴は、「賊軍」会津の出身でありながら、陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。会津藩士の五男として生まれた柴の生涯は壮絶であった。戊辰戦争によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。幼い柴は、敵の目を逃れて、自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた。

 捕虜とされた後、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住するが、極寒の地での生活は困窮を極めた。「炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥(かゆ)も石のごとく凍り、これを解かして啜(すす)る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹(かか)りたるも、褥(しとね)なければ米俵にもぐりて苦しめらる」「餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩(や)せ衰え、脚気(かっけ)の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む」。後に柴はこう回顧している。

 野良犬の死骸をも食べ、絶望的な境遇を必死に生き抜いた柴を支えたものは、「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉(ろうぜき)を被りたること、脳裡(のうり)に刻まれて消えず」という会津武士の矜持(きょうじ)であった。

 「非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし」。齢(よわい)80を超してもなお、「懊悩流涕(おうのうりゅうてい)やむことなし」と書き残した言葉の意味は重い。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)