会津伝小野派一刀流剣術の技は、袈裟斬りに来るのを斬り落としている。大上段正面斬りに来るのを斬り落とすより、荒技が通用しないという意味では、難度が高い。力では相手の袈裟に来る刀剣側面を叩くだけで、斬り落とせないからである。
極意歌に「斬り結ぶ」とあるままに、剣と剣の交点が「結ぶ」ように合気になって、「仕掛ける太刀を持つ者の体軸」と「打ち掛ける太刀を持つ者の体軸」が「結ぶ」ように合気になって、一体となる。ここが大切である。
こうして初めて「仕掛ける太刀」が落ちるのではなく、「仕掛ける太刀を持つ者の体軸」が崩れるのである。
ここに至れば、合気柔術における「崩しの術」の理合が、剣柔一体であることが見えてくる可能性がある。何としてでも、ここまで精進しなければならない。
映像は体術で横面内呼吸投げなどの時、どのような根拠で「呼吸投げ」と言えるのか、言えないのか、説明している場面である。「呼吸投げ」と言うからには、剣の接点の理合と螺旋の崩しの理合が、同時成立して欲しい。
この映像は順足順体である。ツイッターに掲載したhttp://twitvideo.jp/02Q0Kは、逆足逆体である。技としては目付の関係で、後者のほうが難しい。仕太刀からすれば順足順体である右袈裟斬りの方が打ち易く、逆足逆体である左袈裟斬りの方が打ち難い。このように仕太刀と打太刀双方にとって、順逆別の修錬目的と達成する歓びがあるのである。
付言すれば、撮影者が演武者の意図を汲み取って撮影している事も愉快である。見る眼のない者に撮影させると、不快な映像となる。「おい、撮ってみろ」と言って、「ハイ!分かりました」と、きっちり結果を出す。師は師たるべく、門弟は門弟たるべく、為すべき事を為す。こうして成り立っている稽古の場が、実に愉快である。
仕掛ける太刀者は、剣道修錬者でもあって、袈裟斬りが形になっている。しかし彼は剣体一致ではないため打ちが軽く、演武者である私の技の本領が発揮されていないのが残念である。打ちはもっと激しく重くなければならないし、しかも無理があってはならない。その難しさゆえに、仕掛ける太刀は古来師匠の役目とされる事の意味深さを、改めて考えるのである。
極意歌に「斬り結ぶ」とあるままに、剣と剣の交点が「結ぶ」ように合気になって、「仕掛ける太刀を持つ者の体軸」と「打ち掛ける太刀を持つ者の体軸」が「結ぶ」ように合気になって、一体となる。ここが大切である。
こうして初めて「仕掛ける太刀」が落ちるのではなく、「仕掛ける太刀を持つ者の体軸」が崩れるのである。
ここに至れば、合気柔術における「崩しの術」の理合が、剣柔一体であることが見えてくる可能性がある。何としてでも、ここまで精進しなければならない。
映像は体術で横面内呼吸投げなどの時、どのような根拠で「呼吸投げ」と言えるのか、言えないのか、説明している場面である。「呼吸投げ」と言うからには、剣の接点の理合と螺旋の崩しの理合が、同時成立して欲しい。
この映像は順足順体である。ツイッターに掲載したhttp://twitvideo.jp/02Q0Kは、逆足逆体である。技としては目付の関係で、後者のほうが難しい。仕太刀からすれば順足順体である右袈裟斬りの方が打ち易く、逆足逆体である左袈裟斬りの方が打ち難い。このように仕太刀と打太刀双方にとって、順逆別の修錬目的と達成する歓びがあるのである。
付言すれば、撮影者が演武者の意図を汲み取って撮影している事も愉快である。見る眼のない者に撮影させると、不快な映像となる。「おい、撮ってみろ」と言って、「ハイ!分かりました」と、きっちり結果を出す。師は師たるべく、門弟は門弟たるべく、為すべき事を為す。こうして成り立っている稽古の場が、実に愉快である。
仕掛ける太刀者は、剣道修錬者でもあって、袈裟斬りが形になっている。しかし彼は剣体一致ではないため打ちが軽く、演武者である私の技の本領が発揮されていないのが残念である。打ちはもっと激しく重くなければならないし、しかも無理があってはならない。その難しさゆえに、仕掛ける太刀は古来師匠の役目とされる事の意味深さを、改めて考えるのである。