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目付けにいう肉眼

2010-05-27 | Japan Traditional culture日本の伝統文化
 武の学びは、一眼二足三丹四力(いちがんにそくさんたんしりき)という。重要度の高い順番に配列し、それに従い養えという。何故だろう。理由は簡単、この差によって勝負が決したことの経験知であると思われる。
 実際の学びは、四力あっての三丹。三丹あっての二足。二足あっての一眼である。四から一へ遡るように訓練をした。もちろんここでいう二足とは跳躍力ではない。ここでいう一眼をは肉眼(動体視力)と心眼のこと。

 なぜ一眼なのか、目付けが最重要なのかを考えたい。

 見ることの機能に、二つある。一つは、関心のある部分に焦点をあわせ実際に見る機能。一つは関心の無い部分の焦点をはずし、消す作業。なぜだろう?
 被写界深度とは焦点が合う奥行きをいうが、人間の眼は中心しか焦点が合わない。周辺部分では焦点が合っているかどうか、それすらもわからない。我々は見たいものしか見ていないのだ。人間は必要ないものを視野から消す作業をしている。だからその人が何を考えているか、関心があるかによって、見える世界は異なる。

 相手が剣を構えているとする。仮にこちらが相手の剣に捕らわれたとすると、相手の肘や肩、体軸に出る初動を見逃すのはもちろんのこと、相手の気配を感じることはできない。剣の他がまったく見えていないからだ。
 沢庵禅師が「病葉(わくらば)」に喩えたのがこのこと。一本の木を見た時、変色した病葉に捕らわれると樹木全体が見えない。なにごともなく樹木全体を見ていれば、病葉がどこにあるかは自然に見えてくる。被写界震度が深くなった状態(全体に焦点が合った状態)、遠山の目付け、蜻蛉の目、というのは同じこと。

 ここまでは、ほぼ肉眼の説明といえる。武道にいう心眼、これはいきなり宗教的悟りの境地のように語るのは誤りであると思う。その一歩前に、意と形の一致が出来ていることによって、感じる世界がある。
 
 身体使いが錬れている。技術の根本を掴んでいる。上から4行目で「もちろんここでいう二足とは跳躍力ではない。」といったのはこのこと。力と技術を消して、意と形を一致させることが出来る。こうして初めて感じる世界が、心眼の初歩的なものと思われる。


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