PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第4章 努力を忘れない・No.017
「小さな経験を積み上げていくことだ。
そうすれば、自身もつくし、
人からも信用されるようになる」
土川元夫 元名古屋鉄道社長・会長(1903~74)
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土川元夫は東京の本郷元町で生まれた。
父親は医師をしており、幼い頃の暮らし向きは裕福だった。
上川が七、ハ歳の頃、叔父が頭取をしていた一宮銀行で支配人が100万円
もの大金を使い込むという事件があり、土川家も弁償金を支払うことになった。
上川の父親は借金までして叔父の支援をしたため、その後はお金でかなり
苦労したという。
大正5(1916)年に尋常小学校を卒業し、愛知県第一中学(現在の旭丘高等学校)
に進学。同校は愛知県の名門として知られ、小学校の推薦がなければ受験すること
もできなかったというから、上川の優秀さがわかる。
愛知県第一中学を卒業した上川は、自ら一年間の浪人生活を望み、翌年に第四高
等学校(現在の金沢大学) へ進学。
高校時代は剣道に打ち込み、全国大会優勝を成し遂げた。
学業おろそかで危うく退学になりかけたが、京都帝国大学へ進学。
第一次世界大戦特需のため学生時代は好景気に沸いていたが、卒業時には不況の
どん底だった。
実家でブラブラしていると、気の毒に思った親族が名古屋鉄道の就職口を紹介してくれ、
昭和3(1928)年に入社することになった。
当時は全国にたくさんの小規模の鉄道会社が存在していたが、戦時色が濃くなると合併
吸収がさかんに行なわれるようになった。
小さな地方鉄道だった名鉄も、10社以上の鉄道会社との合併・買収で巨大化していった。
戦時中は電車の正常運行に尽力し、上川は昭和36年に取締役社長に就任した。
デパート経営や観光地の開発など多角的な事業展開を行なって、名鉄を鉄道会社から
複合企業体へ進化させ、名鉄中興の祖とされたのである。
名鉄が他社と合併した際、土川は閑職に追いやられることがしばしばあった。
だが、それでも腐らず与えられた仕事をきっちりとやり続けた。
この小さな努力が、彼をライバル視していた人物からも信頼を得るきっかけとなった。
細々とした仕事は敬遠されがちだが、大きかろうが小さかろうが仕事は仕事。
小さな仕事を笑い、おろそかにする者には、大きな仕事は与えられないだろう。
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無功徳(むくどく)
見返りを求めないこころ。
善い行いは見返りを求めて行うものではない。
何も期待せず、黙って無心な気持ちで行うこと。
見返りなど求めない、常にボランティアの精神が大切。
:気持ちが楽になる禅の言葉より
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