PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第1章 ビジネスチャンスのつかみ方・No.003
「いつかは誰かがやらねばならない
ことがある。だからうちがやる」
佐治敬三・元サントリー会長(1919~1999)
サントリーは日本最大の酒造メーカーである。
佐治敬三はサントリーの創案者、鳥井信治郎の二男(小学校の
ときに母方の縁者と養子縁組をしたため、佐治姓)としてこの会社
を継いだ・・・・・・・・・・・と、ここだけ聞いて「何の苦労も知らないニ代
目社長では?」「悪しき世襲制」と眉をひそめる人も、なかにはいる
だろう。もちろん、ダメな二代目社長がいることは事実だが、佐治は
ただの二代目社長ではなかったのである。
佐治は、大阪帝国大学を卒業し、終戦の昭和20.(1945)年にサン
トリーの前身である寿屋に入社した。
当時の寿屋の主力商品は「赤玉ポートワイン」と「白札」「角瓶」と
いう二種類のウィスキーで、300名ほどの従業員で切り盛りする酒
造メーカーだった。
これを日本最大のメーカーに育てあげたのが佐治だったのである。
高度成長期には「洋酒と名がつけばなんぼでも売れた」(佐治談)と
いう経験をしたが、佐治は、そのぬるま湯にただ浸かっていることは
なかった。
ビール業界への再進出(昭和九年に一度撤退している)という大英
断を下したのである。
当時、ビール業界は麒麟麦酒、サッポロビール、アサヒビールの大
手三社による寡占状態にあり、新規参入の余地などあり得ないように
思えた。だが、彼は「努力しなければ会社はやがて傾く」「寡占状態を
いつかは打ち破らなければならないときが来る」と考え、ハイリスクを
覚悟で、再進出を強行したのだった。
予想どおり、サントリーのビール部門は苦戦を強いられ赤字が続い
たのだが、平成16(2004)年に初めて黒字となり、その翌年には同社
のビールがモンドセレクションで金賞を受賞するという栄誉を得たので
ある。これは、食品オリンピックとも称される、世界的に権威のある食品
品評会だ。それは、「いつかは誰かがやらねばならないことがある。
だからうちがやる」という佐治スピリットが、ようやく結実した瞬間といえ
るだろう。
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