PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第1章 ビジネスチャンスのつかみ方・No.007
「誰がやったことのない仕事にこそやりがいがある
世界の何人も成功しなかったような仕事を成し遂げる
のが、日本の新事業家の栄えある使命じゃあるまいか」
御木本幸吉・養殖真珠の創始者(1858~1954)
三重県の「阿波幸」といううどん屋を営む家に生まれたのが御木本幸吉である。
父は、粉挽き臼を改良して三重県から賞金を受け取ったほど機械いじりが好
きな人で、幸吉もその血を受け継いでいた。
幼い頃から士族の家へ通って熱心に勉強した幸吉は、14歳の頃、すでに行
商で金を稼ぐようになっていた。
機械いじりだけではなく商才にも長けていたらしく、鳥羽港を訪れたイギリスの
軍艦にも商品を納入していたという。
明治11(1878)年に20歳で家督を相続した幸吉は、鳥羽周辺で採れる真珠な
どの海産物が高値で売れることを知り、家業をうどん屋から海産物商へ変更する。
着々と力をつけた彼は20歳代にして志摩国海産物改良組合長、三重県商法会
議員などを歴任する地元の名士となった。
鳥羽の海産物で最も高く売れるのは真珠だった。
だが、そのために乱獲が進み、真珠を産するアコヤ貝は絶滅の危機に瀕していた。
事態を重く受け止めた幸吉は大日本水産会の柳 楢悦(ならよし)、東京帝国大学
の箕作住吉(みつくりかきち)、岸上謙吉らを訪ね、真珠の養殖が可能かどうかを熱
心に聞いてまわる。彼らの答えは「可能」だったが、それには「理論的に」という但し書
きがついており、しかもかなり困難なことが予想された。
明治23年にまったくの手探り状態で開始した真珠の養殖実験は、3年目に半円
形の真珠の付着というかたちで実を結んだ。
のちに幸吉は明治29年に真珠養殖に関する特許を 取得、やがて「真珠王」と呼ば
れるようになった。
幸吉が真珠王と呼ばれるか否かの分岐点は、研究者たちから「(真珠の養殖は)か
なり 困難だ」と聞いたときだといえる。
そこで諦めていたら、幸吉は地方の名士で終わっていたはずだ。
だが、彼は冒頭の言葉どおり、その困難に真正面から立ち向かい、歴史に名を残した。
毎日のように訪れる人生の分岐点で、困難な道を選んだ者が成功を手にすることも
少なくないのだ。
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