楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.012

2018-05-18 | 先人の知恵に学ぶ

 PHP『心に響く・名経営者の言葉』
       第1章 ビジネスチャンスのつかみ方・No.012

「機会は魚群と同じだ。

   はまったからといって網をつくろうと
       するのでは間に合わぬ」
         岩崎弥太郎・三菱財閥の創設者(183485

 岩崎弥太郎は、土佐藩(現在の高知県)の地下(じげ)浪人の
家に長男として生まれた。
 地下浪人とは、苗字帯刀は許されるが俸禄(ほうろく)を受けら
れない身分で、農民として暮らしている場合が多い。
 このような身分の低い家に生まれた弥太郎だったが、幼い頃
から利発なことで知られていたため、江戸へ上って安積艮斎
(あさかごんさい)(儒学者で、二本松藩校の教授を経て昌平貴
(しょうへいこう)の教官になった)のもとで学ぶ機会を得た。
  土佐へ戻った弥太郎は、吉田東洋(藩政改革を推進した土
佐藩士)のもとでさらに学び、吉田に推薦され土佐藩の開成館
長崎出張所へ赴任。そこで貿易についても学んだ。
 開雨維舶浚の明治2(1869)年に弥太郎は大阪へ行き、土佐
藩営の海運業者・大阪商会の幹部になる。
 大阪商会は翌年に藩営を離れ、九十九(つくも)商会と名称を
変更。弥太郎はその九十九商会の経営権を握り、やがて、明治
10年に起きた西南戦争を利用して売上げを仲ばし、日本一の海
運業者となった。
 その後、社名を三菱商会に変更し、炭鉱や銅山、鉄道など幅広
い投資を行ない、三菱財閥の基礎を築いたのである。
 世襲制が当たり前だった江戸時代で、地下浪人の家に生まれた
者が、のしあがっていくのは至難の業だ。
 しかし弥太郎は、数少ないチャンスをものにして江戸へ上ったのだ。
長崎へ赴任したときも、最初の役職は「下役」という使い走りに等しい
ものだった。そこで彼は主任にまで昇進し、グラバーや坂本竜馬とい
う歴史に名を残す著名人とも友好を結んだ。
 そして、明治維新と西南戦争という動乱を利用し、日本一の海運業
者にまで上りつめたのである。
 弥太郎はチャンスを逃がさない男だった。
「棚からぼた餅」ということわざがあるが、ボンヤリ待っているだけでは、
せっかくのチャンスを逃がしてしまう。弥太郎の言葉は、いつチャンス
が訪れてもいいように待ち構えていなければならないということを教え
ている。


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