楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心って一つ!!

2011-05-27 | 駄弁り

 

自らの表面を覆っている様々な不自然な心を拭い去ることが、どれほどできているか。 

実践の歩を進めつつ、自己点検を怠ってはいけない。

 

服についた汚れやほこりは、目で見てわかる。拭うこともできるが。

心の中の汚れ(不目然な心)というものは、自分ではなかなか見えないものである。

 

自分では見えぬ、例えば顔についた汚れを知るには、賢者は「鏡」というものを用いる。

同じように心の汚れもまた、人という鏡、わが子という鏡を通して、見ていくことができるの

である。 

 

「人は鏡」、相手が、私の心をそのまま映し出して見せてくれている――という

目己変革のための教えであるが、大事なことは、自分の欠点、自らの不目然さというものは

「自分ではなかなかわからない」「不自然であることすら気づけない」という点を落とさない

ことと言える。たとえば、本当は周囲の人が辛抱をしているだけであることに気づかず、

「私は周囲の人と仲よく(コミュニケーション)できている」と思い込む。また陰で多くの尊い働きや、人の心遣いが

あって完成した事柄も、「自分の力で物事が成った」と錯覚してしまう。

 

さらには自分勝手や自己中心を「自分らしさ」だと錯覚したり、「自分が変わる」事を

棚上げにして、わが子に多くを求め、自分は教育熱心な親と自認していることも少なくない。

 ことほどさように自分というものは、わかっているようでわかっていない。

わからないからこそ、人様が見せてくださり、「改めよ」と教えてくださるのである。

そこまで謙虚にならない限りは、真に自分が変わる一歩にはつながらないのだということを

よくよく肝に銘じておきたいものでる。

 

 落ちこんでしまうのは、自分は大したものだというふうに思い込んでいて、にもかかわらず、

さはどの評価を得られなかったから。逆にほめられて有頂天になるのも、自分はできていると

思い上がっているところに自尊心をくすぐられるからである。

自分はわかっていない、という立場から、もし自分の目に映る相手の姿が、快く見えない、

快く思えないー-としたら、「それは必ず、自分に大切なことを教えてくれているのだ」と捉え、

潔く、さわやかに方向転換をしていく事が大事。

 

 繰り返しになるが、そこにあるものは「私が変わる」という一点に尽きる。

間違っても「鏡」を非難するようなことはしない、というキッパリとした心の収め方が必要

なのである。

 

 流れる水は、腐ることなし。清(すが)しい心と実践で、今日一日を油断なく踏み固めていきたいものである。

 

どうです、難しいでしょう。 イガ爺が勉強している儒教は、難しいのである。

 

・イガ爺が定年を迎えた職場、若いサブリダーと話が出来た、業績OKとの事、

 

・若い所長の下、がんばっているなと思った、イガ爺でありました。

 

   ・PS:耶馬の里は今日も小雨の一日、そんな中、頑張っている昔のともがら

    連続業績達成に、イガ爺、喜ぶ!!

   ・定年退職した、職場ではあるが、何かと心をかけてくれる事に、感謝の

    思いのイガ爺であります。

・今夜も、支離滅裂の投稿であります。    20:15投稿


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1 コメント

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Unknown (クウガ)
2011-05-31 12:52:37
講演会出席できずすみません。
そろそろ職場での思い出話を語ってくれませんか?(^^)
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