自らの表面を覆っている様々な不自然な心を拭い去ることが、どれほどできているか。
実践の歩を進めつつ、自己点検を怠ってはいけない。
服についた汚れやほこりは、目で見てわかる。拭うこともできるが。
心の中の汚れ(不目然な心)というものは、自分ではなかなか見えないものである。
自分では見えぬ、例えば顔についた汚れを知るには、賢者は「鏡」というものを用いる。
同じように心の汚れもまた、人という鏡、わが子という鏡を通して、見ていくことができるの
である。
「人は鏡」、相手が、私の心をそのまま映し出して見せてくれている――という
目己変革のための教えであるが、大事なことは、自分の欠点、自らの不目然さというものは
「自分ではなかなかわからない」「不自然であることすら気づけない」という点を落とさない
ことと言える。たとえば、本当は周囲の人が辛抱をしているだけであることに気づかず、
「私は周囲の人と仲よく(コミュニケーション)できている」と思い込む。また陰で多くの尊い働きや、人の心遣いが
あって完成した事柄も、「自分の力で物事が成った」と錯覚してしまう。
さらには自分勝手や自己中心を「自分らしさ」だと錯覚したり、「自分が変わる」事を
棚上げにして、わが子に多くを求め、自分は教育熱心な親と自認していることも少なくない。
ことほどさように自分というものは、わかっているようでわかっていない。
わからないからこそ、人様が見せてくださり、「改めよ」と教えてくださるのである。
そこまで謙虚にならない限りは、真に自分が変わる一歩にはつながらないのだということを
よくよく肝に銘じておきたいものでる。
落ちこんでしまうのは、自分は大したものだというふうに思い込んでいて、にもかかわらず、
さはどの評価を得られなかったから。逆にほめられて有頂天になるのも、自分は・できていると
思い上がっているところに自尊心をくすぐられるからである。
自分はわかっていない、という立場から、もし自分の目に映る相手の姿が、快く見えない、
快く思えないー-としたら、「それは必ず、自分に大切なことを教えてくれているのだ」と捉え、
潔く、さわやかに方向転換をしていく事が大事。
繰り返しになるが、そこにあるものは「私が変わる」という一点に尽きる。
間違っても「鏡」を非難するようなことはしない、というキッパリとした心の収め方が必要
なのである。
流れる水は、腐ることなし。清(すが)しい心と実践で、今日一日を油断なく踏み固めていきたいものである。
どうです、難しいでしょう。 イガ爺が勉強している儒教は、難しいのである。
・イガ爺が定年を迎えた職場、若いサブリダーと話が出来た、業績OKとの事、
・若い所長の下、がんばっているなと思った、イガ爺でありました。
・PS:耶馬の里は今日も小雨の一日、そんな中、頑張っている昔のともがら
連続業績達成に、イガ爺、喜ぶ!!
・定年退職した、職場ではあるが、何かと心をかけてくれる事に、感謝の
思いのイガ爺であります。
・今夜も、支離滅裂の投稿であります。 20:15投稿
そろそろ職場での思い出話を語ってくれませんか?(^^)