PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第1章 ビジネスチャンスのつかみ方・No.001
は三洋電機創業者・井植歳男さんの言葉だ!!
「与えられた仕事を命じられたまま
トレースするのではなく、
自分の持つ知識・能力・技術・アイデアを
プラスし、自分の足跡を残せ」
井植歳男・三洋電機創業者(1902~1969)
日本の家電業界にとって、井植歳男の名は忘れられないものである。
彼は兵庫県で回船業を営む清太郎の長男として生まれた。
13歳のときに清太郎が急死したため、井植は跡を継ぐと主張したが、
「子どもが上の学校への進学を望めば、田や畑を売って行かせるように」
という遺言があったので、母は猛反対した。
結局、井植は我を通して叔父の船で見習い船員を始めた。
ところが、大阪湾で東京倉庫の大爆発に遭遇し、命からがら実家へ舞い
戻ったのである。
そんなとき、姉が嫁いでいた松下幸之助から、独立してソケットを作ること
になったので手伝ってほしいという誘いがあり、大阪に出てきた。
当初は材料運びなどの下働きをした井植だったが、大正9(1920)年に
東京駐在員に任命されると、単身東京へ向かった。
そして関東大震災という荒波に揉まれながらも必死に市場拡大に努め、
昭和10(1934)年に松下電器産業(現在のパナソニック)が設立されると、
専務に就任したのである。
やがて太平洋戦争後に松下を離れ、昭和22(1947)年に三洋電機製
作所を設立して、社長に就任した。
独立する際、幸之助から自転車用発電ランプの製造権を譲られ、当初
はそれが三洋電機の主力製品だった。
しかし井植は冒頭の言葉どおり、譲られた物をそのまま製造・販売する
ということはせず、改良に改良を重ね、会社設立からわずか二年後には
国内シェアでトップになったのである。
その後も、当時の「三種の神器」といわれた洗濯機に着目。
低価格の洗濯機を発売するなど、他のメーカーとは一味違う製品の製造
を心がけた。
豊臣秀吉は、信長に命じられたわけでもないのに、草履を懐で温めていた。
これが、出世のきっかけになったのは有名な話だ。
現在のビジネスシーンでも、いわれたことをいわれたとおりにやっているだ
けでは頭角を現すことはできない。
「自分なりの工夫を加えられないか」をいつも念頭に置く必要がある。
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