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どうして桜を観るのだろう?
それは、美しいから?
それともはかなく散ってしまうのを知っているから?
古文では花 というと桜をさしていたという。
中学時代、古文の先生が何度も「無常」について説明してくれた。
それでもまだ13歳程度の娘達には そんな意味がよく理解できないままだった。
けれど先生は何度も力説していった。
「無常こそ 古文に流れる大切なテーマなんですよ・・・」
桜を花と呼ぶのなら 無常というのは桜の在り方そのものだ。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ・・・
いかにその美しい命が短いか、年を重ね、経験を重ねたものはよく知っている。
だから 今観るしかない。何をさしおいても観るしかない。
365日ある中で、桜の花が存在するのはたった10日くらいなものだ。
そのうち天気のいい日が半分、自分の都合が合う日がまた
半分しかないとするなら、素晴らしい桜に出会えるのは
1年に2~3日しかない計算になってしまう。
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それならば?他をさしおいてもいいではないか?
いやむしろ?何よりも優先させてもいいではないか?
日本は桜の国なのだから。 そしてあれほどまでに妖艶で
美しい樹というのは 他に存在しないのだから・・・
私が桜に惹かれるのはあの長い冬を知っているからだろう。
桜の樹は芽がでる直前まではまるで枯れ木のようにじっと
静かに動かない。もしかして、この樹、今年はもうだめなのかも・・・
そんな心配さえしてしまう程、梅が咲いても桃が咲いても
黄色い花々が目を覚ましても 桜はうんともすんとも言おうとしない。
そして他の花々に目を奪われ、春の陽気がやってきた、と思った
ある時、桜は一気に目を覚ます。そのスピードたるや
恐ろしい。今日なんて目の前の桜が散っていくと同時に
半日くらいでぐんぐんと若葉が伸びていくのを目の当たりにして
そのスピード感に恐れ入った。
けれど桜はどっしりと構える そう私たちの目に映る。
桜の中ではものすごい変化が進行中でも 焦ることなく
ドーンと構えている かのように見えてしまう。
それが桜の偉大さなのだろう。
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あんな樹 は他に一体あるのだろうか と満開の花を観るたび
疑問に思う。たわわに実ったような花達。枝の先には花ばかり。
他の多くの植物は葉っぱがあって、花があって、セットのような
気がするけれど、桜が完全に満開な時、そこに緑色は存在しない。
それもまたとても不思議で奇妙に思えてしまう。
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私は桜の優しさが好きだ。包み込むようなあたたかさ
さっきまで完全に眠っていて まったく自己主張しなかったのに
いきなりドーンと開花し、それでもつつましやかな感じが残る。
穏やかで優しく、自己主張しないのに気づけばドーンと目立ってしまう。
奇をてらったわけではない。桜は桜のままなのだけれど
他の植物とは違う。ただあるがままに咲き、咲ききった時
それまで見向きもしなかった人たちが一斉に上を向く。
その顔といったらまあなんとも嬉しそう・・・
桜を観るには顔を上にやるしかない。たとえ携帯をにぎっていても
今度ばかりは下向きでなく、上を少しは向くしかない。
「わあ きれい・・・」そう言ったとき、その人の中で
何かが少し ましになる。桜はそんな多くの人々を
非常に優しく包み込む。
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桜はちゃんと 知っている。
人の世は常ならず。おごれる者も久しからず。
彼らはしばしどんちゃん騒ぎをした後で、また自分の存在を忘れてく。
でも今あなたが私を愛でてくれるなら 恩返しを致しましょう。
美しい姿と光をあなたにみせてあげましょう。
そうして桜は本当に語りかけるかのように
とっておきの光を呼び込み 優しく包み込む美しい姿を
パアッーと目の前に示してくれる。それはまるで
孔雀が羽を広げたかのように世にも眩しい キラキラとした
そんな姿を 「愛してくれたご褒美にね」そんな言葉で
見せてくれるように思う。
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美しい桜に圧倒されながら 私は目を細めてしまう。
ここに同じ姿があるではないか 浮世絵と同じ姿が目の前に・・・
目の前にはぼんぼりがあり、カメラではとてもとらえきれない
どこまでも続く川とそれに沿った桜が存在している。
あまりに美しい景色の中で 人々は嬉しそうに上を見上げる。
広重の時代から変っていない 日本の文化が目の前にある。
ここは2015年のはずなのに 東京はこんなに変ってしまったのに
今目の前に ほぼ変らない光景がある。これを文化というんだな・・・
そして私は一人そんな光景に感動を抑えきれずに
ついカメラを手に握ってしまう。日本の文化は存在する・・・
文化というのは人々が気にもかけない、そんなの当たり前で
そこまで嬉しくも思わない そんな中にあるのだろう。
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あまりに美しくはなかいものが 今目の前に存在する
それはルーブル美術館展でもベネチアまで行くのでもなく
自分の普段の行動範囲をあともうちょっとだけ広げることで
無料で目にすることができてしまう。
葉桜になったらもうおしまいだ。毛虫がでてきてその後
ほんのわずかに心地よい時間があって、それから蚊たちがやってくる。
日本の夏は外にも出れない。ピクニックしたら熱中症で
倒れてしまう。だからこそ今、ほんのわずかな春の期間に
外の美しいものを目でないと。そう思って私は来る日も来る日も
外に出る。もう体がもたなくっても取り憑かれたように出てしまう。
そしてまた美しい桜に出会い、つい呆然としてしまう。
どんなに足や腰が痛くても、まあいいや、と思ってしまう。
美しいものには力がある。人の造るものも美しい。でも
自然のままで、本当にかなわないほど美しいものは日本に沢山
存在している。桜と紅葉、それだけはどうしたって観ないといけない。
年を重ねる度にそう思う。
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