人生 というものが 一体どういうものなのか
私にはわからないけれど 30前後でやってくるらしい
人生の転機とか大幅な変化というのがあるとするなら
私はちょっと早めにやってきてしまったようで
もう厄年も怖くない?というような気さえする。
私がかつて出会った「何年も前に余命何ヶ月と
宣言された」という元がん患者さんたちは
素晴らしい笑顔で「今は毎日が楽しくて
病気はプレゼントだと思ってる」と言っていた。
あの時はさっぱり意味がわからなかったけど
そうでもしないとわからないようなことを
神様は病気やら大変な体験を通して
誰かに教えてくれるのだろうか おそらく
そういうタイプの人は 人の話にちゃんと
耳を傾け 「なるほど、じゃあそうしよう」と
すんなりやれる様なタイプの人ではなかったろうから、、、
それで?その後は?私もいつかこう言いたい。
「大変だったけど風邪みたいなもんだったのよ」
「あれがあったから色んなものを得られて
今はちゃんと幸せになった」そう笑って言ってみたい。
あの時はすごく深刻に思えても 風邪みたいな
ちょっとした浄化作用 よくなるための
浄化作用にすぎなかったんだって いつかそう言ってみたい。
しつこさ というものは 一般には悪いと
考えられているけれど それが効を奏する場合もあるようで
しつこく願う しつこく信じる 貫き通すというのは
大切なことであるらしい。信じる力。かつて
私の友人は私を「信じる!の師匠」と書いてくれたけど
信じるというのは自分と自分がこれだと思った未来を信じることで
沢山の人が「それはどうかな」と言うからといって
それがダメとは限らない。もしスタバの社長が若いときに
一度採用を断られ そこで粘らなかったなら?
彼が諦めてしまっていたら 今のスタバに並ぶ人たちも
沢山の人の笑顔も 私の本も 存在することはなかっただろう。
何かを成し遂げた人たちは けっこうしつこい人たちだった
ダメでもダメでもめげなかった 彼らが信じていたものは?
まわりの人や他人の評価ではなくて 自分自身 なんだなあ
私は何年か前くらいから レボリューションキャンプの最後あたりかも
しれないけれど 他人の意見に自分を譲った。 どこからかわからないけど
あのころはすごかったよねと言われてた そんな力はどこかにいった
気がつけば 他人の目 や 他人の意見を通してた
それは京都という場所に移ったのも大きかったかもしれないけれど
結局のところ自信がなかった それは自分を信じる力がなかったということで
だから力もあんまり出せなかったのだろう
時折誰かが何かを評価してくれた時「本当に??」と思って
嬉しかったけど 私の中での自己評価はかなりズタズタになっていたから
誰かに言われた後何日か 喜んでいるだけだった。
でもそれじゃあいけないんだな 信じる ということは
自分を信じることらしい 他の誰もが無理だといっても
自分にはそれができると信じられること そうしたら
状況がまわりから変わってくるそうな
そういう力が いるんだなあ、、、
私は夢を見たいと思った でも見ているだけじゃだめなわけ で
なんとか形にしていかないと すっかり忘れていたけれど
そのために一番必要なのは自分を信じる力らしい。
自信 っていうのは あるとか ないとか つけるとか
それだけじゃなくて自分を信じられるかどうかが
かなり大きかったんだなあ できる やれると思い込むこと
そしてそれを信じてみること おかしいと人に思われていても
自分の直感を信じてみること そうしたらいつの間にか
ちょとずつ道が開けていって もっと笑えるかもしれない
フランスで神様は私に沢山の物事や景色を見させてくれた
それは私の想像を容易にしてくれるためだったのだろうか
私はやっぱりパリに住み カフェのある暮らしをしながら
もっと笑顔で笑っていたい そしてやっぱり書いていたい
もしも私が自由になれたら 今度は誰かをちょっと自由にしたい
あなたが今思い込んでいるものだけが 人生なわけじゃないですよって
もしもそんなことが言えるようになったなら 私はもっと書いていたい。
そして素敵な人に囲まれて「あー幸せ!」って心の底から笑っていたい。
人生は諦めるためにあるんじゃない って 夢見たことやクリアに
イメージできたこと は 本当はただ 実現されるのを待っている
ことかもしれない もしそれが本当にそうなのだったら?
そうなんだよ! って 言える日が来るといいよなあ、、、