3月に東大のカフェ研究会に行ってから
上田先生のお話にあった"The great good third place"が気になっていた。
この『第3の場所』のなかにはバーやらカフェやらがふくまれていて
インフォーマルでパブリックな集まりがある場なんだそうだけど
第3の場かあ みんな求めているんだろうけど
実際のところ 第3の場がなかなかないのは何でだろう
昨日恵比寿で面白いことをやっている人とカフェについて
3時間ほど熱く語って 日本人の余裕のなさについて話してた。
第3の場があったところで そこに人は来るのだろうか
いやそもそも 日本人って 第2の場である会社という場に
しばられすぎて 第1の場の家庭さえもかえりみれない
そんな状況じゃないだろうか うちにしたって
げんきくんに 第3の場が必要だよ といってはみても
彼にはとても そんな場にいく余裕はなくて
だから昨日お話をしていた人は 「実際に集まれないから
ネットはどうか」と言っていた。ネットだったら
家にいたって ちょっとした時間にみんなが見られるわけだから。
ネットをする時間はあっても どこかへ行ったり
友人と会う時間はなくて いつもいつも「忙しい」を
連発している日本の人は 何でそんなに「忙しい」んだろ。
社会人になったばかりならわかるけど 私の友人は学生の時も
やたらとみんな忙しくって 東京の人は3週間も前から予約しないと
「ごめんね予定があわなくて!」と会ってはくれないものだった。
なんでそんなに忙しいのかな みんな一体何してるんだろ
それが今でも不思議でしょうがないけれど
そんな忙しさの一つの理由に全てのことを自分でやらなきゃ
いけないという 自分にしか頼れない そんな価値観があるんじゃないか
今日げんきくんと電話で話してそんな気がした。
お金がある人の子は いい教育を受けられて
お金がなかった人の子は 落ちこぼれの道をたどりやすいという
そんなサイクルがいまだにあるのは この社会では
悪い意味での「自己責任」の意識がすごく蔓延してて
子供は一人で育てるものとか 子供は親のお金で育てるものとか
そんな価値観があるからで 誰かと一緒に 誰かが誰かに
手をさしのべてくれるのじゃなく 一人で抱えてやるしかなくて
頼れるのは自分と自分が稼いだお金というわけで
だからひたすら頑張っていて 精神的にも時間的にも余裕がないと
そんな社会のような気がした。
だけども上田先生が カフェ研究会で言っていたように
”How can I do it?"から"How Can WE do it?"という視点に変えれば
もっと楽になるんじゃないか。 私一人じゃできなくっても
あなたとならば あなたたちが一緒にやってくれるなら
そこに到達できるかも 一人ではきっとできないけれど
みんながいるから 時折私が倒れても みんなで上がっていけるかも
そういう思考が とても大事なのではないか 最近すごくそう思う。
子育てだって 一人じゃできない 研究だって 一人でやるより
誰かと一緒の方がよっぽど進んでいける 家事だって
一人で全部やるよりは 誰かと一緒にやる方が
有意義な時間をつくりだせるから 一人でやるよりよほどいい。
そうしてちょっと楽な気持ちになったところで
誰かと一緒に 誰かが助けて 自分も助けて
お互い時間のあるもの同士が 支え合っていけるような
そんな場所が必要なんだ それはきっと第2の場所ではないわけで
それこそが第3の場所 今日げんきくんと話してて
私はこう語ってしまった。
「やっぱりね 浜名湖ユースは答えなんだよ。
直感的には 二人で夢を大きく描いて やっぱりこれだと思っていたけど
どうしてなのかわからなかった。たぶん今はその理由探しをしているところで
げんきくんは先生をやっているけれど いつかその経験を
ふまえた上で もっと社会にその視点を還元しないといけないような
気がするな。やっぱりさ 私たちは第3の場をつくるべきなんじゃない?
浜名湖ユースにひかれていたのは そこに答えみたいなものがあったからだよ」
第2の場所の 学校や職場でもなく いわゆる「地域」や
「公民館」ともちょっと違った 不思議なにおいの第3の場所
浜名湖ユースはそれだった。私たちは夢を見ていた
もう長いこと忘れていたけど 夢があるから それが二人を
結びつけ そうして結婚したわけで。
どこかの途上にいるんだな なんだかふっとそんな気がした
公務員は安定していてありがたいけど それでもやっぱり
いつの日か 自分達で提示して 社会にもっと提言したい
こんな場 が 必要なんだと
こんな答えがあるんだと。
私はどこにいるのだろうと思うこともあるけれど
私はどこかに進んでる 「カフェ文化」を研究しながら
次の答えへ 次のステップへ 知らないうちに向かってる。