閑古止利

感じていること

2020/03/04

2020-03-04 | 日記
 握り雛から次第に自由造形のようになってきた。施設側としては、私に丸投げで、とにかく流行りのアールブリュット(生の芸術と言われ、障害者アートと言われるものの華とされる)のようなものを造って欲しいようだった。
施設側とは、三、四回話したが、充分な熱意は感じなかった。担当職員との、今後の方向性や、基本的な事業哲学を協議する会議の開催も打診したが、職員も忙しくて、結局、会議はひらかれないままだった。

 実際の作業としては、次第に進化して、非常に価値ある芸術品も幾つか出来てきた。それは、はじめのうちは、私の穴窯で、私が焼いていたことにもよっていた。もちろん、障害者の方たちが造る作品のカタチがよくなければ、いくら焼きが良くても、芸術レベルにはならないけれど。
 なにもわからないまま、始めたことだが、アート作品を造っているときに、普段の作業では見せない、楽しげな表情を見せる人もいて、私としても、嬉しい場面はあった。
そのようにして、何回か回を重ねていった。
やがて、県に、国民文化祭と、障害者文化祭が回ってきた。
施設で造った作品も県立美術館に陳列されるという栄誉を頂いた。障害者の親御さんたちも、我が子の意外な才能を見て、嬉しく感じたことは、私の耳にもとどいた。

いいことづくめのような感じになっていた。
         (続く)

2020/02/24

2020-03-04 | 日記
多くの現代アートというものが、まず、発想ありきで作品を具現化し、その上で、作品の説明をするというタイプのものが多い。
その殆んどの作品は、芸術作品と言えるレベルのものではない。
実に陳腐な薄っぺらい作品が殆んどである。
「人権問題」、「環境問題」、「経済問題」、「宗教問題」、、、
様々な問題を題材として扱い、アートと称して、作品のモチーフにして、世間の耳目を惹こうとする。
はっきり言う。
そんなものは芸術ではない。

芸術とは、人間の霊性を高めてくれるものであって、そこに、美と神秘性が宿っているもののことである。

現代アートで、それに応えられるものは極めて少ない。その殆んどは駄作と言わざるを得ない。

2020/03/04

2020-03-04 | 日記
さて、何をどうやってゆこうか考えていたときに、報道で、あるお寺で、握り仏というのを、参詣者に造ってもらっているということを知る。粘土の固まりを手のひらで握ると、跡がついて、なんとなくヒトガタが出来る。その上の頭部分に顔をつければ、なんとなく仏様のようなものが出来あがる。ここからスタートしようと思った。

陶芸課には、出入りはあるものの、およそ七人ほど在籍している。通常は、軽度の自閉症者が、機械轆轤や簡単な型などを使用して器を形作り、重度の方々は木槌で、再生用の失敗した器の土を、叩いて細かくする作業などをしている。

午前に二時間、昼を挟んで午後に二時間の作業が通常のプログラムだ。
陶芸なので焼かなくてはならないため、準備段階で、土の菊練り(脱気と均質化のため)が必要になる。通常の器制作用の土は、土練機という機械で練って使っているが、アート用には、それに向いた別の土を使うことにしたため、私が手で菊練りをすることにした。
この菊練りなどの下準備のために、午前中の時間を使うので、自閉症者の皆さんには、午前中は通常作業をしていただくこととした。

握り仏、ほとけというのもどうかと思い、握り雛と言い換えて、いざスタートした。
しかし、握って顔をつけて終わりなので、あっという間に出来上がる。各人に、三体づつ造ってもらったが、午後の予定時間の二時間が埋まらない。付き添っている職員にも迷惑を掛けるので、次第に工夫して、本体にくっ付ける部材を導入したり、からだに模様を描いてもらったりして、時間も埋まるようになった。それとともに作品も複雑さが増して、見ごたえも出てきた。

さらに工夫して、作品の大型化も図った。下準備が増えて昼食はとれなくなったが。

             (続く)

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