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妻の事4

2022-02-21 15:02:01 | 日記

前の投稿の続きですが、

 

その人は田舎(スマトラ島の故郷)の叔父さんに可愛がられたの

 

話を前にしました。叔父さんはその人を、大きくなったら田舎で

 

一生を終えるのでなく、都会、当時は首都:ジャカルタで活躍できる

 

様に育てたかったらしい。

 

その為、ジャワ島への中学・高校へ行かせた。

 

高卒後、おじさんの願いを無にした格好で、上級生と恋に落ち

 

結婚した。それから長男が生まれ、4,5年して長女が誕生。

 

話では、結婚後、主人は休学中の大学に復学、卒業、

 

就職のためジャワ島の中部から首都:ジャカルタへ、転住

 

処が、長女が生まれるとすぐ、お酒におぼれたか

 

まともに職に就いたが、職を転々と家庭崩壊へ...

 

母子3人を捨てて他の女性のところに、

 

現地ではこういった話は一杯、どの島の男も、家庭を捨てて

 

他へ種まきに出かけて音信不通となる。

 

働き手を突然、失い、乳飲み子から幼児までを田舎において

 

首都:ジャカルタへ出稼ぎにでる婦人たちの殆どが稼いだお金を

 

田舎の父母、子供の養育のために仕送りするのが当たり前。

 

後に主人の妹がスマトラ島の自分の故郷の近くに住んでおり

 

兄はバタム島で女性と暮らしていたが、病死したとの事を

 

聞き、主人の実家(ジャワ島)へ行き離婚届を出した。

 

私とホテルのロビーで話しをするまで27年間くらい寡婦を。

 

その間、二人の子供を育てるため、スタイリストの養成校へ行き

 

資格を取った。beauty palor(美容院)やホテルのサロンで働き

 

生計を立てていた。

 

前に子供が長男と長女の二人と書きましたが、二人とも誰に似たか

 

勉強が良くできた、長男は高校卒業後ドイツの医学行へ行く為

 

ドイツ語を習い、準備をしていたが、ジャワ島の従妹たちの家に

 

行く途中、夜、車がエンジントラブルを起こし路肩に停車中に

 

トラックにはねられ3人とも即死状態に。

 

いま、残る一人娘はもう30前半だが未婚

 

ダイビング、パンジージャンプ、山登りが大好き

 

高校の時英語のディベートで準優勝、大学から推薦入学を

 

断り、国立大学へ入学後、テレビ局から日系広告会社へ就職

 

その後、大学院コースを修了、昨年からバリ島にある

 

某大学院の助教(日本式)をしながら前記広告会社のプロジェクトに

 

参加、生計を、母親は早く孫の顔を見たいが、本人はその気がないらしい

 

それは世の男性は結婚して子供ができると、自分の親父みたいに...

 

自分は幼少ー小学校ー中学―高校ー大学にい至るまで親父の顔すら

 

知らず寂しい思いをした(類推)。

 

その反動かどうも悪のトラウマを抱えてているらしい。

 

それから、東京の住人になるまで、私はその人を7回。LCCの往復航空券を

 

送り、呼んだ。入国審査官が「あんたはよく日本に来るが何しに来るの」

 

と尋ねられた、そのたびに友人と会うためにと答えたらしい。

 

7回呼ぶ間に、私もジャカルタへ行き、1か月の滞在ビザが切れる前に

 

シンガポールやマレーシアへ出国と再入国をしながらその人の観察を。

 

果たして、この人は南洋から日本へきて住めるのだろうかと考えながら

 

最終的に彼女も日本での滞在ビザの延長の為に香港、マカオに出国し

 

滞在期間を延長、都内を案内、夜行高速バスで数回、広島の妹を尋ね

 

厳島神社や尾道、桃狩りなどに連れて行った。

 

故郷の姉たちや娘からも、また東京へ行くのかと尋ねられた

 

彼女がスマトラ島の故郷へ帰り日本での体験談をしているとき

 

ネット電話で姉から「お前さんは、何度も妹を東京へ... 本気かと」

 

尋ねる声がかかったので、もちろん本気(再婚する意)ですと

 

こたえたら、姉たちや娘の同意を得たらしい。

 

初めに、彼女は幼少時~結婚して子供が大きくなってからも

 

叔父さんに可愛がってもらった。お土産をもらうだけでなく

 

叔父さんがスマトラ島からジャワ島に来たときは、西洋料理を

 

食べさせたり、西洋の文化に触れる機会を呉れた。

 

故郷に居るときも朝食は焼き飯風のごはんが普通、

 

然し、叔父はオートミール、コーンフレックにミルクを掛けて

 

叔母は現地風の食事の傍らで叔父と同じものを食べたらしい。

 

私は、現地にいる11年間の間、低カロリーのためパン食から

 

オートミールを食し、その延長上に今の朝食がある。

 

普通、現地の人は、朝食には焼き飯、焼きそば、揚げ物を食べる

 

然し、妻に関しては案ずることなく、私の糖尿病食(1600kcal/日)を

 

文句なしに食する、納豆以外、刺身、握りずしも大好きな南洋人である。

 

この続きはまた、

 

 

 


妻の事3

2022-02-19 18:08:22 | 日記

昨日の投稿の続きで、

 

私が妻と出会った時の、私の状況は下記の通りです。

 

当時の私は、初婚の妻を2000年にがんで天へ

 

2009年に浦島太郎が通算現地系、日系を含む6社で

 

アドバイザーの経験し帰国しました。

 

その前後から再婚をしようとおもい内外のサイトで

 

最終的には寡婦を探す目的でメールサイトに登録

 

内外の国を訪問、多くの寡婦と面会しましたが、

 

心身共にcocok(ちょちょっく、和訳はピッタリ)した

 

人には遭遇しませんでした。

 

何故、海外迄出かけたか?それはサイトに出稿された写真の

 

本人を確かめるために、大体寡婦の人はご自分の若い時の

 

写真をのせています。テネシー州の空港ロビーで、

 

サイトにあった写真の人と2,3回すれ違っていましたが

 

人と待ち合わせしていた人は私の他に居ませんでした。

 

3回目くらいすれ違った人に、もしやあなたはMs ○○さんですか

 

微笑を浮かべて「はい」と返事が、

 

唖然としました:全く別人でした。

 

ちょうど訪問したのは12月のクリスマス前後の週間

 

その人もクリスマスはワシントン州の妹の家で過ごす為

 

私とは「4,5日だけ行動を共にしますから」と

 

前置き、私も往復日時設定の便のため、折角

 

ここまで来たのだから滞在中は楽しもうと思いながら

 

その人がクリスマスを過ごす為、別の中国の寡婦を

 

紹介するから、その人と過ごしてと、

 

私の滞在中、ご飯の支度をしてくれるから安心してと。

 

言い残し、その人は身体改善器具を用意して、整体改善

 

などのクリニックを経営していました。

 

想定外の寡婦が車であちこち連れて行って

 

くれましたが、英語に不慣れで、会話練習機で

 

会話をしながら、過ごしました。

 

私は元来、乗り物が好きなので飛行機の乗り継ぎは

 

苦になりません。

 

妻と出会ったときは、少しオーバーですが

 

適当な寡婦はもういないのだろう?と思った時期でした。

 

話を元に戻して、今回は現地の邦人に

 

ネットワークビジネスを勧誘が目的

 

毎回、訪イの時は華僑の友人(社長)と

 

道具は借りてその人とのんびり プレーを

 

すること、他の華僑の社長との面会、邦人を

 

除く現地人(一般)との面会ですから

 

寡婦を探す目的、気持ちは度外視でした。

 

とは言いましても、在ジャカルタ時代に友人だった

 

寡婦の人々と面会、食事を、日曜日には8年程通った

 

ボゴール(雨の街)の教会で礼拝を捧げました。

 

滞在中、ビジネスの勧誘を終え帰国しました。

 

この続きはまた、今度に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


妻の事2

2022-02-19 18:08:22 | 日記

昨日の投稿の続きで、

 


ネットワークビジネスの書類を記載が終わるまで

 


色々詳しく聞いていくうちに

 


沢山のことがわかってきた。

 


分かったことは出身がスマトラ島の生まれで寡婦であった。

 


子どもは1人(昔は2人の母親、娘が一人、もう一人男の子がいたが*)

 


子どもの事は別の記事で書くことにします、特に*について。

 


今、働いているのはホテルが持つbeauty salonで働くスタイリスト

 


初めはjakartaのホテル(本店5★)にいたがcikarangに進出

 


ここに移ってきた。

 


cikarangはジャワ島を西(ジャカルタ)から東(スラバヤ方向)に

 


向かう高速道路のジャカルタから約30キロ地点に位置する。

 


この町には日系企業がたくさん入る大工業団地が数か所あり

 


人口も増えつつあり、ショッピングモールも数店舗

 


現在も発展中であります(地価は首都ジャカルより高い場所も)。

 


自分の両親は既にいないが、自分が生まれたころは

 


親父はいくつもの農園(コーヒー、ゴムなど)を所有

 


母は農園で働く人たちの弁当やおやつを作り

 


毎日、農園へもって行っていた。

 


自分の兄弟姉妹は上に年の離れた4人の姉、自分は末っ子。

 


近くに叔父さん(親父の弟)夫婦が住んでおり、

 


叔父もいくつかの農園を所有していた。

 


話を聞くと家の周りはジャングルでお猿さんが庭に遊びに

 


私が妻と再婚して初めてスマトラ島の妻が育った土地へ

 


行ったが、ジャングルなど見当たらない。

 


確かに飛行機から望む一帯は緑に覆われて

 


ジャングルに見えそう、家の周りに農園がいくつかあるが

 


私が持つ、ジャングルのイメージは昔、映画でみた

 


ターザンが出てきそうな高い木が生い茂ったところで

 


あるが、それに合う場所はなかった。

 


親父は農園で収穫される産品を中国人へ卸す人で

 


真面目一徹な人であったらしい、一方叔父はオランダの文化に

 

通じ西洋文明に興味を持ちブランド品に興味を示し

 

今風のモダンボーイであった、ベンツにのり

 


外国製の葉巻を、妻を娘のようにわいがってくれた。

 


叔父には2人の息子がおり、一人はスマトラ島をはなれ、

 

ジャワ島で住んでいた。

 

小学校を卒業すると叔父は自分をジャワ島へ転住させた。

 

自分を将来、自分の思う教育をさせ社交界で生きる女性へ

 

と考えていたらしい。

 

その為、叔父は中高時代に長期の休みに何度か

 

スラバヤで有名なダンス教室(中国人が経営の)へ通わせた。

 

叔父の息子がいる地域で中学生ー高校まで卒業した。

 

然し、自分は上級生と恋に落ち高卒後、結婚してしまった。

 

この続きはまた、今度にします。

 

 


妻の事

2022-02-18 10:44:57 | 日記

私の妻は日本に来てもう、7年がすぎた。

 

妻は日本の人ではありません。

 

これから、この人について書いていきたいと思います。

 

そもそも、どこでこの人に出会ったか

 

初めは、いま、日本にいる事など眼中になかったが

 

そもそも、なんで日本の人でない人がここ(東京)にいるか

 

私は日本で定年退職し、翌年の正月からインドネシアへ

 

現地の民間企業のアドバイザーをするために

 

そんなに長くいるはずがなかったが

 

通算、11年間、6つの会社で支援させてもらった。

 

帰国してから、現地の仲間に会うため年に数回、現地へ

 

この人は私が待ち合わせに使ったホテルのロビーで

 

仕事の休憩中であった、

 

私は現地に行くたびに屋台で中古の安い携帯電話を買っていた

 

使うのは声での通話より、アルファベットでメールを多用

 

行くたびに携帯電話のメーカー、型式も変わった

 

日本では方式が違うので、現地購入の品は持ち帰らずじまい。

 

行くたびに安物街で現地にいる間だけ使用できればいい。

 

そんな携帯電話だから使い方もよくわからず。

 

話をもとに戻して、

 

この人が休憩中のところを通りすぎてトイレの方向へ

 

この人は日本人が奥の方へ向かったのに気づいて

 

そっちはトイレだけですよ と声をかけてくれた。

 

私は、わかってますと返事を。

 

現地では会社の事務員、若い女性たちへの呼び方として

 

Ibu(イブ)というインドネシア語を使うのを記憶していたので。 

 

文法的(日本で 地球の歩き方を読んで 俄か勉強)には

 

本来、イブは家庭に入った奥さんに向かい 使うと記憶していた。

 

会社に入ってみると、若い事務員を呼ぶときに皆が

 

イブと呼んでいたので、この人の年齢も知らない人にも

 

イブーと声をかけた:この携帯電話の使い方を教えてくれます?

 

この人は、音声通話の時はこのボタンを、メールを作成は

 

こうやって と使い方を教えてくれた。

 

その時、私が現地のアドバイザー仲間にあう目的は

 

日本で自分が加入したネットワークビジネス勧誘の為。

 

この人にも改めて勧誘しようと思って、

 

早速、大体のビジネスについて説明した。

 

だれでもできるから、イブの名前だけ貸してくれませんか

 

私が費用を出すからと話し、書類に住所、氏名、もろもろを

 

記載してもらおうと思ったが、時間がないため、

 

明日、仕事が終わったら、私のホテルへきてくれますか。

 

そのあと、私は友人に会い、そのビジネスの勧誘を。

 

翌日の夕方、このイブはCikarang(高速道路で約30分乗ると、Jakartaへ)

 

Jakartaはインドネシアの首都、日本の東京都のような行政都市、

 

日本から行くときはホテルはJakartaのホテルを使った。

 

私は現地に通算、11年いたので言葉は大体わかった。

 

私もその書類の書き方を完全に知らなかった、わからないところは

 

ホテルのビジネスセンターから日本の人にメールで問い合わせ、

 

その晩、想定外に書類作成に時間がかかり、Cikarangへ

 

帰るバスがないという、結局、翌朝、朝食後Cikarangへ。

 

当時、私は15年間、寡夫でした。

 

後から分かったがこの人も18年間ほど、寡婦でした。

 

本日は、初めてこの日記を投稿する為この辺でおわります。

 

また、近いうち(明日か、数日後か不明)ですが

 

話の流れが時系列通りでなく、適当に変えますが

 

ご興味があればお読みください。

 

添付の画像は毎朝、この人が作る朝食のサラダです。

 

私のボタンの押し方がわるく偶然、入ったのですが

 

除去のやり方が不明故、このまま載せます。

 


国際送金

2021-02-08 16:04:00 | 日記
二、三年前に日本に居住する外国人が


自分の国へお金を送る場合、


お金の出どころや目的などを


銀行スタッフから詳細に聞かれた。


其れから指定の 送金用紙に


何とかコードを記入して


日本円を米ドルに交換、


米国銀行経由 自分の国の銀行へ


が普通でした。よって2、3日は


掛かった。


最近は日本から


米ドルに交換せず 自分の銀行へ


送れる様に、同時に専用のカードで


あればATMでも其れが可能になった。


今迄は米国が日本から出るお金を


管理が日本が自分で


管理する事を許されたのだろう。


先日 Facebookに国際送金会社の


広告と動画の添付を見て


本日 其処を尋ねた。日本の大手銀行


でも海外送金スタッフで英語を話す


のは少ない、こんな状況下なので


自国語又は英語で手続きの会話が


できる送金社は外国人にとっては


ありがたい場所になったはず。


おまけに2-3時間で現地の自分の


口座への入金がスマホで分かる。


此れが日本の銀行のDX遅れにも


嬉しく無いが繋がる。


そんな気がした午前中でした。