2022年は、沖縄の選挙イヤーである。重要な市長選挙が続くほか、7月に参議院議員選挙、9月には県知事選挙があり、自公側と「オール沖縄」の対決が続く。1月23日の名護市長選挙はその前哨戦と位置づけられた。
この市長選は、辺野古を抱える名護市の選挙であるだけに、全国的に注目されたが、自公が推薦する渡具知武豊現市長が、辺野古移設反対を唱えた岸本洋平前市議に5,000票差(19,524票と14,439票)をつけて圧勝した。この結果については、さまざまな分析が行われてきた。
その内容はほぼ共通している。「オール沖縄」の退潮、辺野古工事が進んで広がった諦めムード、政府による渡具知市政への露骨な財政支援、その財政支援を活用した現職市長の子育て支援の実績、コロナ禍で焦点は基地から生活へ、公明党のフル回転などであった。ここでは、メディアが余り触れなかった要因を考えてみたい。
<なぜ「接戦」予想は外れたのか>
渡具知候補は現職として大きな失点がなく、負ける可能性は少ないとの見立てもあったが、多くのメディアは「接戦」を予想した。結果は渡具知氏の大勝であった。
事前予想のための主な情報源は、世論調査と期日前投票の出口調査、そして現地での取材である。今回、予想がはずれたのは、調査や取材が必ずしも実情をつかみ切れなかったからだと言える。名護市のような人間関係が密な地域においては、本音を公言しにくい空気がある。口を閉ざす人たちの胸の内をどう探るかは、メディア報道にとって難題だ。
筆者自身は、メディア全体に岸本候補を過大評価する傾向があったと感じる。つまり、「岸本洋平」氏は名護市民にとって特別な存在だ、との報道側の思い込みがあったのではなかろうか。
<岸本候補の父親のカリスマ>
同氏の父親は1998年から8年間、名護市長を務めた故建男氏である。ドストエフスキーを愛読し、ソ連共産党の最後の書記長ゴルバチョフ氏が沖縄を訪問した際には、同氏に会いに来たという逸話もある。行政出身の政治家だが、人間や社会に想いを巡らす人でもあった。
故岸本氏は、保守系市長として普天間基地の辺野古への移設を容認しつつ、厳しい条件をつけて政府と対峙した。辺野古問題への対応に悩み抜き、疲れ切った末に病に倒れ、市長退任直後に亡くなっている。その反骨の姿勢と報われなかった死は、今でも多くの市民の記憶に残る。
「オール沖縄」は、故岸本元市長の長男という「ブランド」に、退潮傾向が著しい同陣営へ新風を吹き込むパワーを期待したようだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。
<岸本ジュニアはなぜ失速したのか?>
洋平氏は、選挙運動の序盤では辺野古工事反対を前面に打ち出したが、コロナ禍で生活苦にあえぐ市民の反応を見て、急遽子育て支援策を打ち出す。ところが、その財源の説明は二転三転し、政策立案能力の不足が露わになった。
また、同氏は先輩や同僚に対して配慮することがほとんどなく、その独断専行ぶりは目に余るものがあった。その類のエピソードが口コミなどで広がって、同氏のイメージは悪化した。
その一例は市議補選問題である。市長選に出馬する岸本氏の市議辞任を前提に、「オール沖縄」は補選への立候補者を準備していた。しかし、岸本氏の辞任が遅れ、補選は実施されず、立候補予定者は宙に浮いてしまったのだ。同氏は議員報酬をぎりぎりまで受け取るために辞任を遅らせたのではないか、との噂が流れ、関係者の間に不満が渦巻いた。
さらに、岸本氏と彼の母親や夫人は、古参の運動員や支援者たちに「上から目線」で対応し、その傲慢な態度に憤る人もいた。候補者とその家族がオウンゴールを連発したのだ。
名護市長は、沖縄本島北部12市町村のまとめ役でもある。北部を代表して沖縄県とは頻繁に、時には中央政府とも折衝する。支援者からさえ冷笑される岸本氏では、その役は到底務まらない。彼の落選の報に接し、北部関係者の間に安堵の声が漏れたのも当然だった。
<5,000票差に込められた市民感情>
岸本候補の評判の悪さを考慮すると、ダブルスコアで敗北しても不思議ではなかった。言い換えれば、「よく5,000票差で踏みとどまったものだ」という見方もできるのである。
この微妙な票差は、市民の間に辺野古工事への反発が根強いことを示している。岸田政権は渡具知氏再選をもって、辺野古移設へのお墨付きを得たと判断すべきではないだろう。現実に、各種の世論調査や出口調査によれば、名護市有権者の約60%が辺野古工事に反対している。渡具知氏再選に貢献した公明党の関係者は、選挙後も辺野古工事への不満を隠さない。
<辺野古問題の「地元」とはどこか?>
故翁長雄志氏が辺野古移設反対を掲げて知事に就任した際に、「地元の民意」を強調した。その当時は、名護市長が移設反対派の稲嶺進氏であったため、「地元」とは沖縄県であると同時に、名護市でもあった。沖縄県知事と名護市長が足並みをそろえて「地元の民意」を代表し、辺野古移設を強引に進める政府と闘っている、という主張は説得力があった。
しかし、名護市の渡具知現市長は、明言はしないが事実上辺野古移設容認派であり、玉城県知事とは立場が異なる。そのため、「地元」がどこを指すのか、今ではあいまいである。
<名護市の東海岸と西海岸>
海兵隊施設が建設中の辺野古区(集落)は東海岸にあるのに対し、名護市の人口6万人の90%以上が西海岸に集中することも、「地元」の定義をさらに複雑にしている。
辺野古区を含む名護市東海岸には4,000人余りが居住するが、両海岸の間には山があり、距離も離れていることもあって、西海岸との交流は少ない。また、辺野古施設完成後の騒音等の基地被害は、東海岸に比べて西海岸では、はるかに少ないはずだ。辺野古移設工事を、西海岸の名護市民たちがどこまで切実な問題として考えているのか、辺野古区民の多くは疑う。
辺野古区に対して、故翁長前知事と稲嶺前市長は冷淡だった。玉城知事も同様である。保守派が強く、辺野古移設を容認する傾向があるためだ。辺野古工事の反対派ほど、基地問題の「地元中の地元」である辺野古区に冷たいというのは「オール沖縄」が抱える矛盾である。
結果として、辺野古区や東海岸の住民の中には、県政や市政から軽視されてきたと感じる人が多い。日は東から昇り、西に沈む。それをもじって、「東海岸の辺野古埋め立てでお金が生まれ、西海岸に流れて行き、そこで使われてしまう」などと語る人もいる。渡具知市長は同区に対し丁寧に対応しており、状況は徐々に改善していると言われるが、まだまだ不満は残っている。
<県民投票は「地元の民意」を表したのか?>
「地元の民意」に関連して、県民投票が話題になることもある。2019年2月に実施された辺野古問題に関する県民投票で、反対が「72,15%」だったことは、「移設反対」が「地元の民意」であることの証左だというのである。
だが、この県民投票の投票率は、投票成立要件をわずかに超える52,48%にすぎなかった。47%を超える有権者(その多くは保守系)が棄権し、反対票の実数は有権者全体の37,86%であった。「7割以上の県民が辺野古移設に反対を表明した」とは言い切れないだろう。
この記事では詳しく紹介しないが、この県民投票の「実施」自体、「オール沖縄」陣営全体に歓迎されたわけではない。投票が成立して反対票が多数を占めたので、同陣営にとっては結果オーライではあったが、実施をめぐって激しい対立が続き、陣営内に深い傷跡を残したことを指摘しておきたい。
<辺野古現地の運動の衰退と新たな懸念>
経済界や保守系の離脱によって「オール沖縄」の弱体化が指摘されるが、辺野古現地における活動も衰退した。25年にわたる反対運動に疲労困憊した人が多く、高齢化も進み、多くの運動参加者が退いた。他界した人も出ている。かつて反対派の地元組織「命を守る会」や「辺野古区民の会」などの代表を務めた西川征夫氏も、運動から身を引いた。
加えて、辺野古工事阻止のために座り込んだり、カヌーに乗って埋め立て作業を妨害する活動、いわゆる「現地闘争」を牽引してきた有力な活動家たち(山城博治氏や安次富浩氏など)が、昨年(2021年)、相次いで引退している。
一方、この数年の間に、日本本土の活動家たちが辺野古に常駐する動きが目立つようになった。その一部は現地のレストランだった建物などを買い取り、住み込んでいる。しかも、彼らの住居は民泊を兼ねており、本土から「現地闘争」応援のためにやってくる活動家が宿泊する。
問題は、彼らが新左翼の影響を受けた人たちであることだ。沖縄の基地反対運動は基本的に非暴力的であるが、本土からの「活動家集団」は異質に見える。現時点で大きな事件が起きてはいない。しかし、今後「三里塚闘争」のように過激な活動が行われるのではないかと懸念する人が、辺野古区民だけでなく、「オール沖縄」にも少なくない。
それだけでなく、地元住民とほとんど交流のない集団が運動の前面に出るようになると、一般の辺野古区民は、運動を忌避するばかりか、敵視するかもしれない。そのような状況になれば、「オール沖縄」のイメージが損なわれ、「地元民中の地元民」である辺野古住民から浮き上がってしまいかねない。それは同陣営にとって悪夢であろう。
<知事選の行方>
この記事では、主に、名護市長選に関して、主流のメディアが取り上げなかった側面について述べた。
冒頭に述べたように、本年の夏から秋にかけて、参院選と知事選という全県にまたがる大型選挙が行われる。特に知事選は、天下分け目の戦いであり、今年の沖縄政治の最大の注目点である。
重要な名護市長選挙を落とし、悲観論が漂う「オール沖縄」陣営にとって知事選は絶対に負けられない戦いだ。反面、起死回生のチャンスでもある。玉城知事の高い支持率をフルに生かして体制を立て直し、同知事の再選を勝ち取れるかどうか。それとも、自公が保守系から中道にまたがる体制を固め、基地問題も含めて幅広い政策論争を正面から挑んで、保守県政復活の道筋をつけられるのか。見所は多い。
知事選は参議院議員選挙とセットで構想されると言われている。自公側の候補者の選考はこれからだが、その結果を踏まえて、知事選のさまざまな要因については、稿を改めて考えたい。
(2022年2月23日改訂)
この市長選は、辺野古を抱える名護市の選挙であるだけに、全国的に注目されたが、自公が推薦する渡具知武豊現市長が、辺野古移設反対を唱えた岸本洋平前市議に5,000票差(19,524票と14,439票)をつけて圧勝した。この結果については、さまざまな分析が行われてきた。
その内容はほぼ共通している。「オール沖縄」の退潮、辺野古工事が進んで広がった諦めムード、政府による渡具知市政への露骨な財政支援、その財政支援を活用した現職市長の子育て支援の実績、コロナ禍で焦点は基地から生活へ、公明党のフル回転などであった。ここでは、メディアが余り触れなかった要因を考えてみたい。
<なぜ「接戦」予想は外れたのか>
渡具知候補は現職として大きな失点がなく、負ける可能性は少ないとの見立てもあったが、多くのメディアは「接戦」を予想した。結果は渡具知氏の大勝であった。
事前予想のための主な情報源は、世論調査と期日前投票の出口調査、そして現地での取材である。今回、予想がはずれたのは、調査や取材が必ずしも実情をつかみ切れなかったからだと言える。名護市のような人間関係が密な地域においては、本音を公言しにくい空気がある。口を閉ざす人たちの胸の内をどう探るかは、メディア報道にとって難題だ。
筆者自身は、メディア全体に岸本候補を過大評価する傾向があったと感じる。つまり、「岸本洋平」氏は名護市民にとって特別な存在だ、との報道側の思い込みがあったのではなかろうか。
<岸本候補の父親のカリスマ>
同氏の父親は1998年から8年間、名護市長を務めた故建男氏である。ドストエフスキーを愛読し、ソ連共産党の最後の書記長ゴルバチョフ氏が沖縄を訪問した際には、同氏に会いに来たという逸話もある。行政出身の政治家だが、人間や社会に想いを巡らす人でもあった。
故岸本氏は、保守系市長として普天間基地の辺野古への移設を容認しつつ、厳しい条件をつけて政府と対峙した。辺野古問題への対応に悩み抜き、疲れ切った末に病に倒れ、市長退任直後に亡くなっている。その反骨の姿勢と報われなかった死は、今でも多くの市民の記憶に残る。
「オール沖縄」は、故岸本元市長の長男という「ブランド」に、退潮傾向が著しい同陣営へ新風を吹き込むパワーを期待したようだ。しかし、その期待は見事に裏切られた。
<岸本ジュニアはなぜ失速したのか?>
洋平氏は、選挙運動の序盤では辺野古工事反対を前面に打ち出したが、コロナ禍で生活苦にあえぐ市民の反応を見て、急遽子育て支援策を打ち出す。ところが、その財源の説明は二転三転し、政策立案能力の不足が露わになった。
また、同氏は先輩や同僚に対して配慮することがほとんどなく、その独断専行ぶりは目に余るものがあった。その類のエピソードが口コミなどで広がって、同氏のイメージは悪化した。
その一例は市議補選問題である。市長選に出馬する岸本氏の市議辞任を前提に、「オール沖縄」は補選への立候補者を準備していた。しかし、岸本氏の辞任が遅れ、補選は実施されず、立候補予定者は宙に浮いてしまったのだ。同氏は議員報酬をぎりぎりまで受け取るために辞任を遅らせたのではないか、との噂が流れ、関係者の間に不満が渦巻いた。
さらに、岸本氏と彼の母親や夫人は、古参の運動員や支援者たちに「上から目線」で対応し、その傲慢な態度に憤る人もいた。候補者とその家族がオウンゴールを連発したのだ。
名護市長は、沖縄本島北部12市町村のまとめ役でもある。北部を代表して沖縄県とは頻繁に、時には中央政府とも折衝する。支援者からさえ冷笑される岸本氏では、その役は到底務まらない。彼の落選の報に接し、北部関係者の間に安堵の声が漏れたのも当然だった。
<5,000票差に込められた市民感情>
岸本候補の評判の悪さを考慮すると、ダブルスコアで敗北しても不思議ではなかった。言い換えれば、「よく5,000票差で踏みとどまったものだ」という見方もできるのである。
この微妙な票差は、市民の間に辺野古工事への反発が根強いことを示している。岸田政権は渡具知氏再選をもって、辺野古移設へのお墨付きを得たと判断すべきではないだろう。現実に、各種の世論調査や出口調査によれば、名護市有権者の約60%が辺野古工事に反対している。渡具知氏再選に貢献した公明党の関係者は、選挙後も辺野古工事への不満を隠さない。
<辺野古問題の「地元」とはどこか?>
故翁長雄志氏が辺野古移設反対を掲げて知事に就任した際に、「地元の民意」を強調した。その当時は、名護市長が移設反対派の稲嶺進氏であったため、「地元」とは沖縄県であると同時に、名護市でもあった。沖縄県知事と名護市長が足並みをそろえて「地元の民意」を代表し、辺野古移設を強引に進める政府と闘っている、という主張は説得力があった。
しかし、名護市の渡具知現市長は、明言はしないが事実上辺野古移設容認派であり、玉城県知事とは立場が異なる。そのため、「地元」がどこを指すのか、今ではあいまいである。
<名護市の東海岸と西海岸>
海兵隊施設が建設中の辺野古区(集落)は東海岸にあるのに対し、名護市の人口6万人の90%以上が西海岸に集中することも、「地元」の定義をさらに複雑にしている。
辺野古区を含む名護市東海岸には4,000人余りが居住するが、両海岸の間には山があり、距離も離れていることもあって、西海岸との交流は少ない。また、辺野古施設完成後の騒音等の基地被害は、東海岸に比べて西海岸では、はるかに少ないはずだ。辺野古移設工事を、西海岸の名護市民たちがどこまで切実な問題として考えているのか、辺野古区民の多くは疑う。
辺野古区に対して、故翁長前知事と稲嶺前市長は冷淡だった。玉城知事も同様である。保守派が強く、辺野古移設を容認する傾向があるためだ。辺野古工事の反対派ほど、基地問題の「地元中の地元」である辺野古区に冷たいというのは「オール沖縄」が抱える矛盾である。
結果として、辺野古区や東海岸の住民の中には、県政や市政から軽視されてきたと感じる人が多い。日は東から昇り、西に沈む。それをもじって、「東海岸の辺野古埋め立てでお金が生まれ、西海岸に流れて行き、そこで使われてしまう」などと語る人もいる。渡具知市長は同区に対し丁寧に対応しており、状況は徐々に改善していると言われるが、まだまだ不満は残っている。
<県民投票は「地元の民意」を表したのか?>
「地元の民意」に関連して、県民投票が話題になることもある。2019年2月に実施された辺野古問題に関する県民投票で、反対が「72,15%」だったことは、「移設反対」が「地元の民意」であることの証左だというのである。
だが、この県民投票の投票率は、投票成立要件をわずかに超える52,48%にすぎなかった。47%を超える有権者(その多くは保守系)が棄権し、反対票の実数は有権者全体の37,86%であった。「7割以上の県民が辺野古移設に反対を表明した」とは言い切れないだろう。
この記事では詳しく紹介しないが、この県民投票の「実施」自体、「オール沖縄」陣営全体に歓迎されたわけではない。投票が成立して反対票が多数を占めたので、同陣営にとっては結果オーライではあったが、実施をめぐって激しい対立が続き、陣営内に深い傷跡を残したことを指摘しておきたい。
<辺野古現地の運動の衰退と新たな懸念>
経済界や保守系の離脱によって「オール沖縄」の弱体化が指摘されるが、辺野古現地における活動も衰退した。25年にわたる反対運動に疲労困憊した人が多く、高齢化も進み、多くの運動参加者が退いた。他界した人も出ている。かつて反対派の地元組織「命を守る会」や「辺野古区民の会」などの代表を務めた西川征夫氏も、運動から身を引いた。
加えて、辺野古工事阻止のために座り込んだり、カヌーに乗って埋め立て作業を妨害する活動、いわゆる「現地闘争」を牽引してきた有力な活動家たち(山城博治氏や安次富浩氏など)が、昨年(2021年)、相次いで引退している。
一方、この数年の間に、日本本土の活動家たちが辺野古に常駐する動きが目立つようになった。その一部は現地のレストランだった建物などを買い取り、住み込んでいる。しかも、彼らの住居は民泊を兼ねており、本土から「現地闘争」応援のためにやってくる活動家が宿泊する。
問題は、彼らが新左翼の影響を受けた人たちであることだ。沖縄の基地反対運動は基本的に非暴力的であるが、本土からの「活動家集団」は異質に見える。現時点で大きな事件が起きてはいない。しかし、今後「三里塚闘争」のように過激な活動が行われるのではないかと懸念する人が、辺野古区民だけでなく、「オール沖縄」にも少なくない。
それだけでなく、地元住民とほとんど交流のない集団が運動の前面に出るようになると、一般の辺野古区民は、運動を忌避するばかりか、敵視するかもしれない。そのような状況になれば、「オール沖縄」のイメージが損なわれ、「地元民中の地元民」である辺野古住民から浮き上がってしまいかねない。それは同陣営にとって悪夢であろう。
<知事選の行方>
この記事では、主に、名護市長選に関して、主流のメディアが取り上げなかった側面について述べた。
冒頭に述べたように、本年の夏から秋にかけて、参院選と知事選という全県にまたがる大型選挙が行われる。特に知事選は、天下分け目の戦いであり、今年の沖縄政治の最大の注目点である。
重要な名護市長選挙を落とし、悲観論が漂う「オール沖縄」陣営にとって知事選は絶対に負けられない戦いだ。反面、起死回生のチャンスでもある。玉城知事の高い支持率をフルに生かして体制を立て直し、同知事の再選を勝ち取れるかどうか。それとも、自公が保守系から中道にまたがる体制を固め、基地問題も含めて幅広い政策論争を正面から挑んで、保守県政復活の道筋をつけられるのか。見所は多い。
知事選は参議院議員選挙とセットで構想されると言われている。自公側の候補者の選考はこれからだが、その結果を踏まえて、知事選のさまざまな要因については、稿を改めて考えたい。
(2022年2月23日改訂)