平成5年(1993年)は記録的な冷夏で大冷害。
全国的な作況指数で74だったかな。
中山間地など皆無のところもありました。
なんでもない地域もありました。
たまたま、たまたま、政府の在庫もほとんどなく。
平成5年の秋に収穫されたお米を翌年収穫されるまで食べることになります。
計算上不足するということになりました。(実際は足りた)
日本は米輸入はほとんどしていないわけでありまして。
ところが、緊急輸入ということで商社総動員させてかき集めた。
あろうことか、その輸入米(大半が長粒種)を国産米と抱き合わせで米穀会社に割り当てるという。
当時、まったく形骸化していたが「食管法」が生きていた。
いわゆる、配給制度ですな。
平成6年の春だったと思う。
いわゆるコメパニック。
「金はいくらでも出すから国産米をくれ」
そういうお客様が多かった。
当時、小生の会社は月2500トンくらい精米していました。
一日100トンということは大型トラック10台分の玄米が必要なわけです。
在庫を極力持たず回転率を高めるやり方でした。
当然、大量に買い付けするので安く買っています。
モノが余っている時は実に重宝な会社ですが、モノ不足になれば状況は一変します。
大型トラック1台で売るより、小分けして売る、高く買うところはいくらでもあるという状況に一変しました。
仕入が苦しいところに、輸入米を割り当てるという。
大手ファミレスを中心に業務用のお米を販売させていただいておりました。
「売る米」が無いというほど辛いものはありません。
当時、直営の小売店舗を24店舗ほど展開していました。
お店の前は開店前から行列しています。
でも、売る米が無い・・・
業務用優先、出せなくなってしまった先もある。
ほんとうにご迷惑を掛けました。
申し訳ございません。
その年に大きな決断をしなければならないことに。
会社の資産を売却して清算をするというもの。
顧客を付けて新会社に移行させる。
ある日時を持って会社の貸借対照表(B/S)をゼロにするというのは至難の業であります。
今思えば、メインバンクの支店長以下3~4名が毎日のように午後7か8時くらいに来社され延々と計算、試算をするのです。
日付が変わる頃までやる。
今思うと、ほんとうに有難いことです。
晩飯は出前を取って会議室で食べる。
帰りはそれぞれの自宅までタクシーを用意する。
平成6年9月30日。
わたしは社長室を出ました。
会社の備品ひとつひとつ売却するもの、処分するものを分けて印を付けてあります。
社長の机は要るという。
社長の椅子は不要だという。
私は椅子を持って階段を下りました。
下を向くと涙がこぼれるので上を向いて。
(その椅子は今でも使っています。昭和53年に購入したジロフレックス。)
現在の「いちかわライスビジネス」はその一部を引き継ぎ平成6年10月1日にスタートしました。
あれから20年。
なぜ、今朝はこんなことを書いたかというと。
昨日、当時最大のお客様であった最大手ファミレスの元社長にお会いしたからです。
昔の話しをしばらくさせていただきました。
小生より一回り以上年上ですが、頭の回転早くさすがです。
しゃべるスピードがアナウンサーのように早い。
年取るとしゃべる速度が遅くなるのが普通ですがまったくそうではありませんでした。
新しい取り組みをされておられます。
実に勉強になりました。
昔の話しをしても始まらない。
経験は活かすもの。
失敗は教訓として活かすもの。
古い経験より新しい経験が大事。
過去を振り返ることも必要だが、過去を変えることは出来ない。
変えられるのは「自分と未来」だ。
小生も新しい取り組みをしている最中でワクワクしています。
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