仕事で同行した方々とお参りさせて頂きました。
(参考資料より)
【加子母大杉地蔵尊】
こちらは加子母大杉地蔵尊。
ご本尊は、奈良時代の高僧行基が開いた滋賀県の寺で安置されていたものを、廃寺等により平安末期になって紀成恒という信者が安置場所を求めて各地を旅した際、この地で急にご本尊が重くなり動けなくなったため、お堂を建てたのが始まりと言われます。
このお地蔵様は子宝祈願、安産祈願の御利益でも参拝者が多くあります。
地蔵堂正面左手の軒下には小さなお堂、さすりぼとけ様と呼んでます。痛いところや良くしたいところをさすってお参りすると、御利益があると言われ、仏様のあちこちがつるつるです。地蔵様に子宝祈願、安産祈願に来た人が赤ちゃんのよだれかけにお願いを書いて奉納しているのも特徴です。いつ見ても沢山ありますが、お礼を書いたものも多いですよ。
【文覚上人の墓と なめくじ祭】
さて、境内から道を挟んだ西側には、文覚上人の墓があります。鎌倉時代の僧で、伊豆流罪の時代に若き源頼朝と会い、平家討伐の挙兵を勧めた人物です。
実は鎌倉時代には、近隣の下呂市御厩野に「鳳慈尾山大威徳寺」という、7堂伽藍12坊を有する天台宗の大寺院がありました。文覚上人が、将軍となった源頼朝の命で建立したもので、鎌倉将軍も参拝に訪れるほど格式が高かったそうです。この付近には多聞坊という12坊中の主坊があり、多聞坊へ参ってから威徳寺へ参拝するため、この地が大威徳寺への玄関口であったそうです。そんなわけで、この地には文覚上人と源頼朝の足跡が語り継がれています。
現在、文覚上人の墓は、「なめくじ祭」で知られています。
文覚上人は出家前の武士時代に、横恋慕した人妻を誤って斬り殺してしまったそうです、その袈裟御前の霊が、悔い改めた上人を慕い、ナメクジ(刀傷の模様があるといいます)となって「九万九千日」(旧暦7月9日:毎年日付が違います)の日に墓に表れると言われます。
子供の頃は恐る恐る夜中に墓を見に行きましたが、多い年は百匹を越えるナメクジが墓をはっていることもありました。
今では、地区だけで行う供養の日から、賑やかな「なめくじ祭」へと進化し、奇祭として広まり毎年テレビ取材も訪れるほどになりました。(賑やかになったせいか、祭りが真夜中ではないせいか昔ほどの数は出ないようですが)
【鎌倉石と源頼朝】
文覚上人の墓のすぐとなりには源頼朝が大威徳寺参拝のおりに腰掛けて休んだと伝わる「鎌倉石」があります。(子供の頃はなぜか鎌倉石に塩を供えると翌日晴れると信じてました。)
地蔵堂についてもゆかりがあります。元々300メートルほど西にあったお堂を、この地を訪れた源頼朝が大杉を指し示し、「あの杉の下にお堂を移すように」と言ったため、現在の位置に移ったという言い伝えがあります。
【乳子の池】
地蔵堂の少し北東にある「乳子の池」も紹介します。
その昔、池のほとりで赤子を拾い乳に困った婦人が、地蔵様のお告げにより池に湧く清水を与えて育てたという言い伝えが広まり、乳の良く出る清水として参拝者が多くあったようです。
【その他の歴史と伝承】
この他、加子母には平家の落人が住んだと言われる集落跡や伝承もあり、落人征伐にあって生き残った娘が、金の茶釜を埋めたといわれ、その地を示す歌、村人に預けた位牌などが伝わっています。
加子母に残る方言で、昔の人は石垣の事を「ついかけ」、転がり落ちることを「まう(舞う?)」といいますが、昔中学校の先生は、「これは当時の京言葉である。平家の落人がもたらした言葉ではないか。」とおっしゃってました。
また、鎌倉時代に関東の三浦一族が北条氏との争いに敗れ滅ぼされた後、逃げ延びた一派が、岐阜県側から峠を超えて長野県王滝村まで落ち延びたといわれ(今も三浦姓の集落に言い伝えられているそうです)、その途中で加子母の地に居付いたのが、加子母の三浦姓の祖であるという話も子供の頃に聞きました。
このように、特に鎌倉時代に関わる伝承が多いのが、この地域の特徴です。
ご紹介したのはほんの一部ですので、まだまだ他にも大威徳寺の軍資金埋蔵伝説や安徳天皇のお墓伝説など、ミステリアスな伝承が色々ありますよ。
また、一つの伝承にも色々な説がありますので、ご紹介したものは代表的な一例です。
ぜひ、歴史と伝承の里「加子母」を訪れて、「加子母の大杉」を一度ご覧下さい。一見の価値はありますよ。これだけアクセスしやすい巨木はなかなかないでしょう。
大杉の麓には以前紹介した鶏ちゃん(けいちゃん)の名店「がやの木」(昼は持ち帰りのみ)や、五平餅とおみやげの「地蔵庵」もあります。
歴史マニアなら、下呂市御厩野の大威徳寺遺跡とセットでお越し下さい。下呂温泉もセットにすると、より満足できると思います。