岩美町中央公民館において 鳥取公文書館巡回展 「澤田廉三と美喜の時代 」 12月21日まで開催しています。 浦富出身の初代国連大使で 「 愛国は愛郷より 」 を処世訓のひとつとしてきたとして 「 私の今日あるは一に浦富の賜物である 」 と述べ 終生ふるさと浦富を愛した。 (画像は上記フォトアルバム岩美の偉人澤田廉三)
岩美中学の裏山に仙英禅師 (浦富生まれ)の顕彰碑「祖国愛」 田後 鴨ヶ磯に敵国ロシア軍の遺体漂着碑「人類愛」 町浦富 通幻禅師誕生の地に「母子愛」 等々「三愛碑」 の建立。
その一方 浦富小唄 を作り。 書を書く際には雅号を桐山城から取って梧山 ( ござん )。俳句を詠む際には 沙鴎 ( さおう ) という俳号を使用して 町内に多くの扁額や書軸を残されています。
慎みの 絆は解けず 河鹿鳴く
平凡ほど 有難きはなし 年の暮れ 沙鴎
1970年12月08日没 享年八十五歳
日本海新聞のコラム 『 散歩道 』 (14日付け) に鳥取敬愛高校 教頭 小山富見男先生の 「澤田廉三・美喜夫婦と地域の人々展を見て」 という寄稿文を読みました。
-前略- 初めて見る写真や資料も多い中で、目を引いたのが「ふるさと」と題した廉三の岩美への思いを詠んだ一文だった。 「 わが庭に山と池あり、山は一帯の白砂の丘、池は万波蒼々(そうそう)の海なり。・・・ 海は遠く北に展(ひら)けてその果てを知らず。 昼は白帆随所に浮かび、夜は水平線のあたり漁火点々たり。・・・ 謝すべきかなわが庭園、賛(たた)うべきかな、わが山と池。・・・ 」
明治四十年、廉三、十八歳、一高一年生の時に岩美に帰省した時の日記の一節である。 晩年に揮毫(きごう)を頼まれた時、廉三は好んでこの一節をしたためたという。
古来、山河の秀でたる地は偉人が出るといわれているが岩美町もその例ににもれない。 廉三ほど岩美の自然をこよなく愛した人物はいない。 そして、夫人の美喜も新婚時代に岩美を訪れ、熊井浜に澤田家の別荘を建て、戦時中は、ここで疎開生活もした。 戦後はホームの子供達と夏の一ヶ月を過ごした。東京生まれの美喜は、豊かな自然に恵まれた岩美に故郷を感じていたのだろう。 また、ホームの出身者たちも岩美を懐かしい故郷だと思っている。 廉三が「山」と表した白砂の丘に「海」を眺めながら廉三と美喜は仲良く眠っている。
かって壊れかかった別荘を地元有志が修理し、保存に努めていると聞く。それに呼応して岩美中学校の修学旅行はサンダース・ホームを訪問し、澤田廉三、美喜夫妻を通して、人権学習・平和学習・郷土学習をしていると聞く。今回の展示も地元有志の人たちの手作りだという。 -後略-
妻の美喜はエリザベスサンダースホーム ( 戦後の孤児救済の施設 ) に終生全力を注ぎ、1980年5月12日、旅行先のスペインで亡くなりました。 ふたりは浦富の海の見える小高い墓地に共に眠っています。
昨日、中央公民館で敬愛高校の生徒達の「 澤田美喜と子供達の記録 」と題して研究発表があった。 戦後アメリカの兵士と日本人女性の間に生まれた混血児を救おうと 「 エリザベスサンダースホーム 」 を設立。 夫の故郷、くまや(熊井浜)にある澤田家の別荘(鴎鳴荘)へ夏の臨海学校として子供達と来ていました。
澤田廉三の外交官時代、妻の美喜は廉三の赴任先へ同行し イギリスの孤児院 ドクター・バナードス・ホーム に大きな影響を受け、戦後 神奈川県大磯の 岩崎家別荘を買い取り、昭和二十三年エリザベスサンダースホームを設立しました。ホームの名称は日本に長く住んだイギリス女性エリザベスサンダースの遺産をホーム設立の基金としたことに由来します。
ちくまホームⅡより
写真は パンフレットより
岩美中学の裏山に仙英禅師 (浦富生まれ)の顕彰碑「祖国愛」 田後 鴨ヶ磯に敵国ロシア軍の遺体漂着碑「人類愛」 町浦富 通幻禅師誕生の地に「母子愛」 等々「三愛碑」 の建立。
その一方 浦富小唄 を作り。 書を書く際には雅号を桐山城から取って梧山 ( ござん )。俳句を詠む際には 沙鴎 ( さおう ) という俳号を使用して 町内に多くの扁額や書軸を残されています。
慎みの 絆は解けず 河鹿鳴く
平凡ほど 有難きはなし 年の暮れ 沙鴎
1970年12月08日没 享年八十五歳
日本海新聞のコラム 『 散歩道 』 (14日付け) に鳥取敬愛高校 教頭 小山富見男先生の 「澤田廉三・美喜夫婦と地域の人々展を見て」 という寄稿文を読みました。
-前略- 初めて見る写真や資料も多い中で、目を引いたのが「ふるさと」と題した廉三の岩美への思いを詠んだ一文だった。 「 わが庭に山と池あり、山は一帯の白砂の丘、池は万波蒼々(そうそう)の海なり。・・・ 海は遠く北に展(ひら)けてその果てを知らず。 昼は白帆随所に浮かび、夜は水平線のあたり漁火点々たり。・・・ 謝すべきかなわが庭園、賛(たた)うべきかな、わが山と池。・・・ 」
明治四十年、廉三、十八歳、一高一年生の時に岩美に帰省した時の日記の一節である。 晩年に揮毫(きごう)を頼まれた時、廉三は好んでこの一節をしたためたという。
古来、山河の秀でたる地は偉人が出るといわれているが岩美町もその例ににもれない。 廉三ほど岩美の自然をこよなく愛した人物はいない。 そして、夫人の美喜も新婚時代に岩美を訪れ、熊井浜に澤田家の別荘を建て、戦時中は、ここで疎開生活もした。 戦後はホームの子供達と夏の一ヶ月を過ごした。東京生まれの美喜は、豊かな自然に恵まれた岩美に故郷を感じていたのだろう。 また、ホームの出身者たちも岩美を懐かしい故郷だと思っている。 廉三が「山」と表した白砂の丘に「海」を眺めながら廉三と美喜は仲良く眠っている。
かって壊れかかった別荘を地元有志が修理し、保存に努めていると聞く。それに呼応して岩美中学校の修学旅行はサンダース・ホームを訪問し、澤田廉三、美喜夫妻を通して、人権学習・平和学習・郷土学習をしていると聞く。今回の展示も地元有志の人たちの手作りだという。 -後略-
妻の美喜はエリザベスサンダースホーム ( 戦後の孤児救済の施設 ) に終生全力を注ぎ、1980年5月12日、旅行先のスペインで亡くなりました。 ふたりは浦富の海の見える小高い墓地に共に眠っています。
昨日、中央公民館で敬愛高校の生徒達の「 澤田美喜と子供達の記録 」と題して研究発表があった。 戦後アメリカの兵士と日本人女性の間に生まれた混血児を救おうと 「 エリザベスサンダースホーム 」 を設立。 夫の故郷、くまや(熊井浜)にある澤田家の別荘(鴎鳴荘)へ夏の臨海学校として子供達と来ていました。
澤田廉三の外交官時代、妻の美喜は廉三の赴任先へ同行し イギリスの孤児院 ドクター・バナードス・ホーム に大きな影響を受け、戦後 神奈川県大磯の 岩崎家別荘を買い取り、昭和二十三年エリザベスサンダースホームを設立しました。ホームの名称は日本に長く住んだイギリス女性エリザベスサンダースの遺産をホーム設立の基金としたことに由来します。
ちくまホームⅡより
写真は パンフレットより
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