慰安婦制度の確立
日本帝国陸軍の通達は 慰安書設置の目的は日本軍人による性犯罪の防止と占領地域の住民の反感、敵対心の高まりの防止である事を示している。
日本軍は兵士による性犯罪と性病の防止の為、兵士に慰安を与えるためそしてスパイ活動の遮断の為に慰安所を設置した。しかし慰安所はこうした問題への現実的な解決策ではなかった。 日本の歴史家 吉見芳明によれば、これはむしろ問題を悪化させた。 吉見氏は「日本帝国陸軍はなによりも兵士のくすぶった不満が爆発し反乱がおきるのではないかと懸念していた。そこで女性を提供した」と論じている。
(概観)
最初の“慰安所“は1932年に上海の日本人居留地に作られた。 初期の慰安婦はこうした奉仕に自ら手を上げた日本人娼婦であった。 しかし日本の軍事的拡張が続いたので日本人娼婦の数が不足し、日本軍は慰安所での奉仕に女性を駆り出すべく現地住民に目を向けた。
多くの女性達が工場労働者や看護婦として募集に応えた。 そして性的な奴隷にされる事を知らなかった。 戦争の初期、日本の当局は通常の手段で娼婦を募集した。 都市部での仲介者を通じての公募が誘拐とともに行われた。 仲介者は日本や日本の植民地(朝鮮、台湾、満州、中国)の新聞での応募を募った。こうしたルート(特に日本からのルート)はすぐに限界にきた。 外務省は日本のイメージを損なうものとして日本人の娼婦への渡航ビザのこれ以上の発給を拒否した。 軍は慰安婦の徴発先を本土以外、特に朝鮮と中国の占領地域に向けた。 多くの女性が軍の慰安所にだまされて連れて行かれた。
戦争が長引くにつれ事態は更に悪化した。 軍は部隊に充分な供給を手配する事ができなくなった。 代わって、部隊は不足分を地元からの収奪や徴発によって埋め合わせした。前線、特に仲介者も少ない田舎では軍はしばしば直接に地元の指導者達に慰安所用の婦女を集める事を求めた。 地元民、特に中国人が敵対的だと思える場合には、日本軍兵士は地元市民の無差別の誘拐、暴行を含む“三光作戦“を実施した。
アメリカ戦争情報室の20人のビルマ人慰安婦とのインタビューについての報告では、少女達は充分なお金の提供と家族の借金の棒引き簡単な仕事、そして新しい土地、シンガポールでの新生活という条件の提示に心を動かされた、こうした嘘の募集広告の下で多くの少女達が海外での職に名を登録し、数百円の前渡し金を受け取った。
最近の資料調査と東京裁判記録
2007年4月17日、吉見芳明と林博文が東京裁判の記録の中に日本軍(特警隊=海軍憲兵)が憲兵隊を襲撃した犯人を父に持つ女性達を中国、インドシナ、インドネシアの前線の慰安所に強制的に送り込んだ事を示唆する幾つかの公式文書を発見したと公表した。 これらの書類は、当初は戦争犯罪法廷で公表された。 その一つでは、「慰安所を組織し自分がそれを利用した」というある中尉の証言を伝えている。 他のものには特警隊の隊員が道で婦人を逮捕し、健康診断を強制した後に慰安所に彼女達を送り込んだと伝えている。
2007年5月12日、檻村太一郎(カジムラタイチロウ、ジャーナリスト) が1944年にマゲランで発生した強制的な集団売春事件の証拠としてオランダ政府に提出した30の書類を発見したと報じた。
2007年9月には、韓国政府が慰安婦の募集に際し日本の協力者であったとしてBae Jeong-jaを特定した。
慰安婦の数
公式文書の不足が慰安婦の数の推計を困難としている。
国の最高司令部の戦争犯罪、戦争責任に係る問題に関連する膨大な資料が終戦時に日本政府の命令によって処分された。 歴史家達はある特定の地域に於ける兵士の数と慰安婦の数の比率を示す残された文書を参照したり、慰安婦の置き換え率を考慮に入れる事により様々な推計を発表している。
歴史家吉見芳明氏はこの問題を明るみに出す最初の学術的な研究を行い、5万人と20万人の間という数字を推定している。 この推計に基づき多くの国際的なメディアは約20万人の若い女性が兵士によって徴発され誘拐され日本の慰安所で働かされたと伝えている。 BBCは20万人から30万人と伝え国際法律家協会は10万人から20万人と推計している。
国籍別
バッファロのNew York州立大学教授 野崎よしこ、その他によれば女性の大半は朝鮮と中国から来ていたとされる。中央大学教授 吉見芳明は約2000の慰安婦に20万人の日本、中国、朝鮮、フィリピン、台湾、ビルマ、インドネシア、オランダ、オーストラリアの女性達が収容されていたと述べた。 日本大学教授 秦郁彦は認定の慰安施設で働いていた女性の数は2万人以下でその40%は日本人、20%韓国、10%中国、残りの30%はその他の国々と推定している。 秦教授によれば日本国内で政府が規制する娼婦の数は第二次大戦の期間を通じて合計で17万人に過ぎず、多くはフィリピン、台湾、オランダ領インド、その他の日本占領国や地域の出身者であった。 一部のオランダ女性もアジアのオランダ植民地で捕らえられ性的奴隷状態におかれた。
1940年からの日本軍性病治療のデーター分析によって、吉見氏は仮に治療を受けた女性の国別比率が全ての慰安婦のそれを反映しているとすれば朝鮮女性は51,8%、中国が36%、そして日本が12,2%となると結論している。
現在までにわずか1人の日本人女性が自らの体験を公表している。 これは1971年に出されたもので、台湾の兵士慰安所での奉仕を強いられた元慰安婦は城田鈴子(シロタスズコ)という仮名で回顧録を出している。
慰安婦の治療
約4分の3の慰安婦は死亡し生き残った多くは性的なトラウマや性的感染症の為に不妊症となった。 日本兵士 金子やすしによれば「女性達は悲鳴をあげた。女性達が死のうが生きようが自分達にはどうでもよかった。我々は陛下の兵卒であり慰安所でも村々でもためらうことなく暴行をした」とされている。 殴打や拷問は日常的なことだった。修正主義者 秦郁彦氏は金子のこの証言は偽りだとしている。何故なら1937年の南京事件について彼は証言しているが、彼の入隊は1940年のことであるからである。
10人のオランダ女性が1944年2月に性的奴隷となるべく日本軍の将校によってジャワ島の収容所から強制的に連れ出された。 彼女達はいわゆる慰安所で昼夜の別なく殴打され犯された。 この事件の被害者 ヤンラフ オニールは1990年に米国下院の委員会で証言を行った。
「日本の収容所に於けるオランダ人女性の恐怖、苦痛、飢えについては多くの事が語られてきた。でも1つの事はまだ伝えられていない。 第二次大戦の間に日本によってなされた最悪の人権侵害の恥ずべき物語。 慰安婦の話。従軍慰安婦。どのように彼女達がその意思に反して日本軍人に性的奉仕をする事を強制されたか。いわゆる慰安所で自分は昼夜の別なく殴打され犯された。そこを性病の検査の為に訪れる日本人医師さえ訪問の都度自分を犯した」
慰安所での最初の朝にヤンラフ オニール達は写真を撮られ日本兵の受付として使われていたベランダにその彼女達の写真が置かれた。 その後の4ヶ月間、少女達は昼夜となく殴打され犯された。 妊娠した者は堕胎を強要された。恐怖の4ヶ月後、少女達は西ジャワのボゴールにあったキャンプに移された。そこで家族と再会できた。 このキャンプは軍の慰安所に連れて行かれた女性達の専門の場所であった。 日本兵は収容者達にもしそれぞれに何が起こったかを誰かに話したら、その者と家族は殺されると警告した。数ヶ月の後オニールはバタビアのキャンプに移され1945年8月15日に解放された。
関係した日本人将校は終戦時に日本当局によって厳罰に処世された。 終戦後、バタビアの戦争犯罪法廷で11人の将校が有罪とされ、その内の1人は死刑を宣告された。 判決は暴行者が冒した罰は対象の女性は自発的な徴発に限ると定める軍規違反であった。 東ティモールの被害者はまだ初潮をみていない状態でも奉仕にかり出されたと証言した。 判決文の中で日本兵はこうした初潮前の少女達を繰り返し犯し拒むものは死刑にしたと述べている。
ハンクネルソン 豪州国立大学アジア太平洋研究室の名誉教授は日本軍によるパプアニューギニアのラバウルにおける第二次大戦中の慰安所について、ラバウルで戦争捕虜となっていたゴートン トーマスの日記を引用する形で伝えている。 トーマスによれば、慰安所で働いている女性達は毎日25~35人を相手にしており、黄色人種奴隷貿易の被害者であったとされる。
ネルソンは又ラバウルに駐屯していた日本人の海軍医務官 井草賢太郎の備忘録を引用しつつ、女性達は悲鳴を上げ助けを求めつつ化膿と深刻な痛みに耐え続けていたと記している。
朝鮮
第二次大戦中日本は朝鮮に大東亜共栄国の他の地域に作られたものと同様の娼婦制度を導入した。朝鮮の業者、朝鮮憲兵隊そして軍の関連組織が慰安婦の徴発と組織化に係り、その奉仕を利用した。 チョンソンパク氏は日本の支配下の朝鮮人は日本から持ち込まれた公認娼婦制度の主たる担い手としての役割を果たしたと伝えている。
問題の歴史
連合軍は日本兵と共に慰安婦を捕まえた。彼らについての報告を発表した。 1944年 アメリカ軍の査問官は「慰安婦は娼婦又は兵士の便宜の為に日本軍に連れ歩かれた玄人の従軍部隊以外の何ものでもない」と伝えている。 報告書は更に続けて「慰安婦達は良い暮らし向きであった。食料や身の回りの物は特に制限されず、望むものを買うに充分なお金を持っていた。 彼女達は服や靴、煙草、化粧品を買う事ができた。ビルマでは将校や兵士達と一緒にスポーツ大会に参加して楽しみピクニックや余興、会食にも参加した。レコードを持ち街に買い物に行くことも許された」 1945年に米国が朝鮮を征服した際、慰安婦施設は米国兵士の為に維持された。 彼女達は「慰安婦」「西洋のお姫様」とも呼ばれた。朝鮮戦争の後、最後の施設が閉鎖された時慰安婦問題については何の議論もなかった。 日本と韓国が1965年に国交を回復した際にも慰安婦問題は議論の俎上にのぼらなかった。
1973年に千田かこうという名の男が慰安婦制度についての本を書いたがそこでは日本人の参加者に焦点が充てられていた。 彼の著書は日本と朝鮮双方の歴史家によって事実を歪曲しているとして広く非難された。これは戦後に慰安婦問題の為の重要な種本となった。
1974年に韓国の映画会社が「女性の志願部隊」という題名の成人映画を作った。慰安婦問題について朝鮮人が書いた最初の本は1981年に発行された。 これは1976年 在日の著者キムイルミュオン(KIm Il Myeon)によって書かれた本の内容の借用であった。
1989年に吉田誠二の証言が朝鮮語に翻訳された。彼の本は日本、朝鮮双方のマスコミによって取り上げられ歪められたがその発行後、多くの人が日本兵によって誘拐されたなどと証言しながら表に出て来た。 1996年に吉田氏はついに彼の備忘録は偽りの作り話であることを認めた。
多くの証言を受け1993年に強制的な手段もあったと認める“河野談話“が出された。 しかしながら2007年に日本政府は、日本軍や軍人が強制的に女性を徴発した事を示す証拠は見つかっていないという閣議決定を行った。
謝罪と補償
1965年に日本政府は韓国政府に対して慰安婦に与えた(精神的)な苦痛を含め、全ての戦争責任を償うべく3億6400万ドルを提供した。 1994年には日本政府はアジア女性基金を立ち上げ、韓国、フィリピン、台湾、オランダ、インドネシアに対し追加的な補償を配布した。 個々の生存者に対し当時の村山首相からの署名入りの謝罪文が配られた。 そこでは「日本首相として私はここに慰安婦として癒しがたい肉体的、精神的な傷を負い、測りがない苦痛に満ちた経験をなさった全ての女性の方々に心からお詫びに痛惜の念を改めてお伝えします」基金は2007年3月31日解散した。
1991年12月に3人の朝鮮人の婦人が日本の謝罪と反省を求めて訴訟に訴えた。 1992年1月17日にノテウ韓国大統領主催の公式夕食会で日本の宮沢喜一総理は以下の様に述べた。 「我々日本人は、日本の行動が貴国国民に苦痛と悲しみを与えた。 悲惨な時代の事実をまず、そして今後共思い起こすべきであり、このことについての後悔の念を決して忘れません。ここに改めて悔悛の思いをお伝えしたいと思います」そしてその翌日には韓国の国会でのスピーチで重ねてお詫びをした。 1998年4月28日 日本の裁判所は、政府は女性達に補償を行うべきであるとの判決を下し、各自に2300ドルが支払われた。(2913年のレートで3200ドル相当)
2007年には生存している性的奴隷達は日本政府からの謝罪を求めた。 2007年3月1日、当時の安倍晋三総理は日本政府は、去る1993年に慰安所の使用を既に認めているが日本政府が性的奴隷を保持したという証拠は何も見当たらないと述べた。 同3月27日 日本の国会は公式の謝罪を発表した。
論争
日本大学教授、歴史家 秦郁彦は慰安婦の数をおよそ1万~2万人と推計している。秦は慰安婦の一人として強制的に徴発されたものはいないと書いている。
ある日本の政治家は慰安婦の証言内容は矛盾しており、信頼がおけず、従って正しいとは言えない。
漫画家 新ゴマニズム宣言作者 小林よしのりによる「台湾特集号」は日本兵の前に奉仕の順番を待って並んでいる和装の女性達を描きだしている。 小林の本では台湾の実業家Shi Wen Langとのインタビューが載せられている。 彼は女性の誰も奉仕を強要されてはいないし、そこではコンドームの使用が義務づけられているので通常の娼婦との比較でもより衛生的な環境下で働いていると述べている。
2001年初頭にNHKが関係する論争があった。 日本軍の性的奴隷についての女性の国際戦事犯罪法廷の模様の放送と思われる場面が修正主義者の見解を反映するべく、ひどい編集が行われていた。
2011年11月12日 慰安婦を讃えるべく若い女性の銅像が建てられた。 銅像は992年以来、慰安婦の生存者達が日本大使館の前で行って来た毎週水曜日のデモの1000回目を記念して作られたもので「日本の軍団の性的奴隷として徴発された婦人のための朝鮮委員会」の指導の下、ソウルの日本大使館の正面におかれた。 日本政府は繰り返し韓国政府に対し、銅像の撤去を求めてきたがその要求は受け入れられなかった。
2012年6月に2人の日本右翼がその銅像に90cmの看板をくくりつけた。 そこには「竹島は日本の領土である」と書かれてあった。 韓国では独島として知られる。領土紛争の的となる小島に言及していた。 また、2012年10月には米国 ニュージャージーに慰安婦記念館が開館した。
日本帝国陸軍の通達は 慰安書設置の目的は日本軍人による性犯罪の防止と占領地域の住民の反感、敵対心の高まりの防止である事を示している。
日本軍は兵士による性犯罪と性病の防止の為、兵士に慰安を与えるためそしてスパイ活動の遮断の為に慰安所を設置した。しかし慰安所はこうした問題への現実的な解決策ではなかった。 日本の歴史家 吉見芳明によれば、これはむしろ問題を悪化させた。 吉見氏は「日本帝国陸軍はなによりも兵士のくすぶった不満が爆発し反乱がおきるのではないかと懸念していた。そこで女性を提供した」と論じている。
(概観)
最初の“慰安所“は1932年に上海の日本人居留地に作られた。 初期の慰安婦はこうした奉仕に自ら手を上げた日本人娼婦であった。 しかし日本の軍事的拡張が続いたので日本人娼婦の数が不足し、日本軍は慰安所での奉仕に女性を駆り出すべく現地住民に目を向けた。
多くの女性達が工場労働者や看護婦として募集に応えた。 そして性的な奴隷にされる事を知らなかった。 戦争の初期、日本の当局は通常の手段で娼婦を募集した。 都市部での仲介者を通じての公募が誘拐とともに行われた。 仲介者は日本や日本の植民地(朝鮮、台湾、満州、中国)の新聞での応募を募った。こうしたルート(特に日本からのルート)はすぐに限界にきた。 外務省は日本のイメージを損なうものとして日本人の娼婦への渡航ビザのこれ以上の発給を拒否した。 軍は慰安婦の徴発先を本土以外、特に朝鮮と中国の占領地域に向けた。 多くの女性が軍の慰安所にだまされて連れて行かれた。
戦争が長引くにつれ事態は更に悪化した。 軍は部隊に充分な供給を手配する事ができなくなった。 代わって、部隊は不足分を地元からの収奪や徴発によって埋め合わせした。前線、特に仲介者も少ない田舎では軍はしばしば直接に地元の指導者達に慰安所用の婦女を集める事を求めた。 地元民、特に中国人が敵対的だと思える場合には、日本軍兵士は地元市民の無差別の誘拐、暴行を含む“三光作戦“を実施した。
アメリカ戦争情報室の20人のビルマ人慰安婦とのインタビューについての報告では、少女達は充分なお金の提供と家族の借金の棒引き簡単な仕事、そして新しい土地、シンガポールでの新生活という条件の提示に心を動かされた、こうした嘘の募集広告の下で多くの少女達が海外での職に名を登録し、数百円の前渡し金を受け取った。
最近の資料調査と東京裁判記録
2007年4月17日、吉見芳明と林博文が東京裁判の記録の中に日本軍(特警隊=海軍憲兵)が憲兵隊を襲撃した犯人を父に持つ女性達を中国、インドシナ、インドネシアの前線の慰安所に強制的に送り込んだ事を示唆する幾つかの公式文書を発見したと公表した。 これらの書類は、当初は戦争犯罪法廷で公表された。 その一つでは、「慰安所を組織し自分がそれを利用した」というある中尉の証言を伝えている。 他のものには特警隊の隊員が道で婦人を逮捕し、健康診断を強制した後に慰安所に彼女達を送り込んだと伝えている。
2007年5月12日、檻村太一郎(カジムラタイチロウ、ジャーナリスト) が1944年にマゲランで発生した強制的な集団売春事件の証拠としてオランダ政府に提出した30の書類を発見したと報じた。
2007年9月には、韓国政府が慰安婦の募集に際し日本の協力者であったとしてBae Jeong-jaを特定した。
慰安婦の数
公式文書の不足が慰安婦の数の推計を困難としている。
国の最高司令部の戦争犯罪、戦争責任に係る問題に関連する膨大な資料が終戦時に日本政府の命令によって処分された。 歴史家達はある特定の地域に於ける兵士の数と慰安婦の数の比率を示す残された文書を参照したり、慰安婦の置き換え率を考慮に入れる事により様々な推計を発表している。
歴史家吉見芳明氏はこの問題を明るみに出す最初の学術的な研究を行い、5万人と20万人の間という数字を推定している。 この推計に基づき多くの国際的なメディアは約20万人の若い女性が兵士によって徴発され誘拐され日本の慰安所で働かされたと伝えている。 BBCは20万人から30万人と伝え国際法律家協会は10万人から20万人と推計している。
国籍別
バッファロのNew York州立大学教授 野崎よしこ、その他によれば女性の大半は朝鮮と中国から来ていたとされる。中央大学教授 吉見芳明は約2000の慰安婦に20万人の日本、中国、朝鮮、フィリピン、台湾、ビルマ、インドネシア、オランダ、オーストラリアの女性達が収容されていたと述べた。 日本大学教授 秦郁彦は認定の慰安施設で働いていた女性の数は2万人以下でその40%は日本人、20%韓国、10%中国、残りの30%はその他の国々と推定している。 秦教授によれば日本国内で政府が規制する娼婦の数は第二次大戦の期間を通じて合計で17万人に過ぎず、多くはフィリピン、台湾、オランダ領インド、その他の日本占領国や地域の出身者であった。 一部のオランダ女性もアジアのオランダ植民地で捕らえられ性的奴隷状態におかれた。
1940年からの日本軍性病治療のデーター分析によって、吉見氏は仮に治療を受けた女性の国別比率が全ての慰安婦のそれを反映しているとすれば朝鮮女性は51,8%、中国が36%、そして日本が12,2%となると結論している。
現在までにわずか1人の日本人女性が自らの体験を公表している。 これは1971年に出されたもので、台湾の兵士慰安所での奉仕を強いられた元慰安婦は城田鈴子(シロタスズコ)という仮名で回顧録を出している。
慰安婦の治療
約4分の3の慰安婦は死亡し生き残った多くは性的なトラウマや性的感染症の為に不妊症となった。 日本兵士 金子やすしによれば「女性達は悲鳴をあげた。女性達が死のうが生きようが自分達にはどうでもよかった。我々は陛下の兵卒であり慰安所でも村々でもためらうことなく暴行をした」とされている。 殴打や拷問は日常的なことだった。修正主義者 秦郁彦氏は金子のこの証言は偽りだとしている。何故なら1937年の南京事件について彼は証言しているが、彼の入隊は1940年のことであるからである。
10人のオランダ女性が1944年2月に性的奴隷となるべく日本軍の将校によってジャワ島の収容所から強制的に連れ出された。 彼女達はいわゆる慰安所で昼夜の別なく殴打され犯された。 この事件の被害者 ヤンラフ オニールは1990年に米国下院の委員会で証言を行った。
「日本の収容所に於けるオランダ人女性の恐怖、苦痛、飢えについては多くの事が語られてきた。でも1つの事はまだ伝えられていない。 第二次大戦の間に日本によってなされた最悪の人権侵害の恥ずべき物語。 慰安婦の話。従軍慰安婦。どのように彼女達がその意思に反して日本軍人に性的奉仕をする事を強制されたか。いわゆる慰安所で自分は昼夜の別なく殴打され犯された。そこを性病の検査の為に訪れる日本人医師さえ訪問の都度自分を犯した」
慰安所での最初の朝にヤンラフ オニール達は写真を撮られ日本兵の受付として使われていたベランダにその彼女達の写真が置かれた。 その後の4ヶ月間、少女達は昼夜となく殴打され犯された。 妊娠した者は堕胎を強要された。恐怖の4ヶ月後、少女達は西ジャワのボゴールにあったキャンプに移された。そこで家族と再会できた。 このキャンプは軍の慰安所に連れて行かれた女性達の専門の場所であった。 日本兵は収容者達にもしそれぞれに何が起こったかを誰かに話したら、その者と家族は殺されると警告した。数ヶ月の後オニールはバタビアのキャンプに移され1945年8月15日に解放された。
関係した日本人将校は終戦時に日本当局によって厳罰に処世された。 終戦後、バタビアの戦争犯罪法廷で11人の将校が有罪とされ、その内の1人は死刑を宣告された。 判決は暴行者が冒した罰は対象の女性は自発的な徴発に限ると定める軍規違反であった。 東ティモールの被害者はまだ初潮をみていない状態でも奉仕にかり出されたと証言した。 判決文の中で日本兵はこうした初潮前の少女達を繰り返し犯し拒むものは死刑にしたと述べている。
ハンクネルソン 豪州国立大学アジア太平洋研究室の名誉教授は日本軍によるパプアニューギニアのラバウルにおける第二次大戦中の慰安所について、ラバウルで戦争捕虜となっていたゴートン トーマスの日記を引用する形で伝えている。 トーマスによれば、慰安所で働いている女性達は毎日25~35人を相手にしており、黄色人種奴隷貿易の被害者であったとされる。
ネルソンは又ラバウルに駐屯していた日本人の海軍医務官 井草賢太郎の備忘録を引用しつつ、女性達は悲鳴を上げ助けを求めつつ化膿と深刻な痛みに耐え続けていたと記している。
朝鮮
第二次大戦中日本は朝鮮に大東亜共栄国の他の地域に作られたものと同様の娼婦制度を導入した。朝鮮の業者、朝鮮憲兵隊そして軍の関連組織が慰安婦の徴発と組織化に係り、その奉仕を利用した。 チョンソンパク氏は日本の支配下の朝鮮人は日本から持ち込まれた公認娼婦制度の主たる担い手としての役割を果たしたと伝えている。
問題の歴史
連合軍は日本兵と共に慰安婦を捕まえた。彼らについての報告を発表した。 1944年 アメリカ軍の査問官は「慰安婦は娼婦又は兵士の便宜の為に日本軍に連れ歩かれた玄人の従軍部隊以外の何ものでもない」と伝えている。 報告書は更に続けて「慰安婦達は良い暮らし向きであった。食料や身の回りの物は特に制限されず、望むものを買うに充分なお金を持っていた。 彼女達は服や靴、煙草、化粧品を買う事ができた。ビルマでは将校や兵士達と一緒にスポーツ大会に参加して楽しみピクニックや余興、会食にも参加した。レコードを持ち街に買い物に行くことも許された」 1945年に米国が朝鮮を征服した際、慰安婦施設は米国兵士の為に維持された。 彼女達は「慰安婦」「西洋のお姫様」とも呼ばれた。朝鮮戦争の後、最後の施設が閉鎖された時慰安婦問題については何の議論もなかった。 日本と韓国が1965年に国交を回復した際にも慰安婦問題は議論の俎上にのぼらなかった。
1973年に千田かこうという名の男が慰安婦制度についての本を書いたがそこでは日本人の参加者に焦点が充てられていた。 彼の著書は日本と朝鮮双方の歴史家によって事実を歪曲しているとして広く非難された。これは戦後に慰安婦問題の為の重要な種本となった。
1974年に韓国の映画会社が「女性の志願部隊」という題名の成人映画を作った。慰安婦問題について朝鮮人が書いた最初の本は1981年に発行された。 これは1976年 在日の著者キムイルミュオン(KIm Il Myeon)によって書かれた本の内容の借用であった。
1989年に吉田誠二の証言が朝鮮語に翻訳された。彼の本は日本、朝鮮双方のマスコミによって取り上げられ歪められたがその発行後、多くの人が日本兵によって誘拐されたなどと証言しながら表に出て来た。 1996年に吉田氏はついに彼の備忘録は偽りの作り話であることを認めた。
多くの証言を受け1993年に強制的な手段もあったと認める“河野談話“が出された。 しかしながら2007年に日本政府は、日本軍や軍人が強制的に女性を徴発した事を示す証拠は見つかっていないという閣議決定を行った。
謝罪と補償
1965年に日本政府は韓国政府に対して慰安婦に与えた(精神的)な苦痛を含め、全ての戦争責任を償うべく3億6400万ドルを提供した。 1994年には日本政府はアジア女性基金を立ち上げ、韓国、フィリピン、台湾、オランダ、インドネシアに対し追加的な補償を配布した。 個々の生存者に対し当時の村山首相からの署名入りの謝罪文が配られた。 そこでは「日本首相として私はここに慰安婦として癒しがたい肉体的、精神的な傷を負い、測りがない苦痛に満ちた経験をなさった全ての女性の方々に心からお詫びに痛惜の念を改めてお伝えします」基金は2007年3月31日解散した。
1991年12月に3人の朝鮮人の婦人が日本の謝罪と反省を求めて訴訟に訴えた。 1992年1月17日にノテウ韓国大統領主催の公式夕食会で日本の宮沢喜一総理は以下の様に述べた。 「我々日本人は、日本の行動が貴国国民に苦痛と悲しみを与えた。 悲惨な時代の事実をまず、そして今後共思い起こすべきであり、このことについての後悔の念を決して忘れません。ここに改めて悔悛の思いをお伝えしたいと思います」そしてその翌日には韓国の国会でのスピーチで重ねてお詫びをした。 1998年4月28日 日本の裁判所は、政府は女性達に補償を行うべきであるとの判決を下し、各自に2300ドルが支払われた。(2913年のレートで3200ドル相当)
2007年には生存している性的奴隷達は日本政府からの謝罪を求めた。 2007年3月1日、当時の安倍晋三総理は日本政府は、去る1993年に慰安所の使用を既に認めているが日本政府が性的奴隷を保持したという証拠は何も見当たらないと述べた。 同3月27日 日本の国会は公式の謝罪を発表した。
論争
日本大学教授、歴史家 秦郁彦は慰安婦の数をおよそ1万~2万人と推計している。秦は慰安婦の一人として強制的に徴発されたものはいないと書いている。
ある日本の政治家は慰安婦の証言内容は矛盾しており、信頼がおけず、従って正しいとは言えない。
漫画家 新ゴマニズム宣言作者 小林よしのりによる「台湾特集号」は日本兵の前に奉仕の順番を待って並んでいる和装の女性達を描きだしている。 小林の本では台湾の実業家Shi Wen Langとのインタビューが載せられている。 彼は女性の誰も奉仕を強要されてはいないし、そこではコンドームの使用が義務づけられているので通常の娼婦との比較でもより衛生的な環境下で働いていると述べている。
2001年初頭にNHKが関係する論争があった。 日本軍の性的奴隷についての女性の国際戦事犯罪法廷の模様の放送と思われる場面が修正主義者の見解を反映するべく、ひどい編集が行われていた。
2011年11月12日 慰安婦を讃えるべく若い女性の銅像が建てられた。 銅像は992年以来、慰安婦の生存者達が日本大使館の前で行って来た毎週水曜日のデモの1000回目を記念して作られたもので「日本の軍団の性的奴隷として徴発された婦人のための朝鮮委員会」の指導の下、ソウルの日本大使館の正面におかれた。 日本政府は繰り返し韓国政府に対し、銅像の撤去を求めてきたがその要求は受け入れられなかった。
2012年6月に2人の日本右翼がその銅像に90cmの看板をくくりつけた。 そこには「竹島は日本の領土である」と書かれてあった。 韓国では独島として知られる。領土紛争の的となる小島に言及していた。 また、2012年10月には米国 ニュージャージーに慰安婦記念館が開館した。