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4月25日、くも膜下出血で倒れられ入院加療を続けておられたJA3AA、島伊三治さんは薬石効なく8月11日午前4時にお亡くなりになりました。 享年82歳でした。
ご葬儀はご家族にて執り行われましたが大阪国際交流センター・ラジオクラブのメンバーが中心となり本日9月10日の「お別れの会」が計画されました。
定刻の午後2時前には天王寺区にある大阪国際交流センター「さくらの間」前の受付には生前、島さんとお付き合いのあった方々の列ができていました。
遠くはドイツ・ミュンヘンからのDF2CW/Kuniさん、北海道からはJH8BKL/河瀬さん、鳥取市からはJA4HCK/馬場さん、九州からはJF6MIT宮川さんなど、遠方からも多くの方々が参列されていました。
定刻の午後2時、JA3USA/島本さんの司会で開式となり、喪主であるご長男のJH3AAZさんのご挨拶のあと、関西本部長でありJARL副会長のJA3HXJ/長谷川さんがJARLを代表して弔辞を述べられました。 また島さんが大津市で開局されたときの友人であるJA3AG/広田さんもその当時の様子を述べられていました。
島さんの生前をスライドで紹介されていましたが、その1カットにこのブログにもUPした1972年5月開催の松山総会時に松山城天守閣で撮った私とのツー・ショット写真が写しだされて驚きました。
全員の献花が終わり閉式となったあと、有志で会館内にあるレストラン・パンジーで「島さんを語る会」が持たれ約100名の皆さんが参加されました。
もうあの”JA3AA”というコールサインが聞けないかと思うと大変残念でなりません。
ご冥福をお祈りいたします。
ご葬儀はご家族にて執り行われましたが大阪国際交流センター・ラジオクラブのメンバーが中心となり本日9月10日の「お別れの会」が計画されました。
定刻の午後2時前には天王寺区にある大阪国際交流センター「さくらの間」前の受付には生前、島さんとお付き合いのあった方々の列ができていました。
遠くはドイツ・ミュンヘンからのDF2CW/Kuniさん、北海道からはJH8BKL/河瀬さん、鳥取市からはJA4HCK/馬場さん、九州からはJF6MIT宮川さんなど、遠方からも多くの方々が参列されていました。
定刻の午後2時、JA3USA/島本さんの司会で開式となり、喪主であるご長男のJH3AAZさんのご挨拶のあと、関西本部長でありJARL副会長のJA3HXJ/長谷川さんがJARLを代表して弔辞を述べられました。 また島さんが大津市で開局されたときの友人であるJA3AG/広田さんもその当時の様子を述べられていました。
島さんの生前をスライドで紹介されていましたが、その1カットにこのブログにもUPした1972年5月開催の松山総会時に松山城天守閣で撮った私とのツー・ショット写真が写しだされて驚きました。
全員の献花が終わり閉式となったあと、有志で会館内にあるレストラン・パンジーで「島さんを語る会」が持たれ約100名の皆さんが参加されました。
もうあの”JA3AA”というコールサインが聞けないかと思うと大変残念でなりません。
ご冥福をお祈りいたします。
私が大手前の合同庁舎に勤務していたとき、昼食のためエレベーターに乗ると4階から島さんたちが乗ってこられてアマチュア無線の話をしておられたのを思い出します。
私も72歳です。
JA3DAG
島さんがお亡くなりになって、はや3年少しが過ぎました。
私も開局以来、島さんには大変お世話になっていました。
もともと島さんは京都市伏見区にお住まいだったのです。
お墓も京都市内にあるので、毎年お墓詣りだけはさせていただいています。