チェンマイの建築会社のJさんから、ここのところ頻繁にメールが来るようになりました。
新築のWC等に付ける水栓とか、トイレとか、バスタブの写真を送ってきてくれるのです。
「これを入れようと思いますが、これでいいですか?」というつもりで送ってきてるんだと思います。
何しろ、ズバリ写真を送ってくるだけで何の説明もないのですから、意図すらよくわかりません。
何故か私にだけ送ってきて、バンコクの妻のところにはメールは送られていません。
私は、メールを転送して妻の意見を求めるのですが、細かいところで意見が分かれたりして、
夫婦喧嘩のもとになったりすることもあります。
そういう、どうでもいいようなやり取りを妻としていて、ふと気がついたことがありました。
トイレの形とか、バスタブの大きさとかには何の関係もないことです。
それは、表題に書いた「豊かさ」です。私の人生において注文住宅を建てるのは初めてです。
200平米を超える家を建てることになるとは、1年前には想像もしていませんでした。
日本に住んでいたら、到底そのレベルの広さの家は、私の器量ではなかなか建てられません。
何年か前に、妻と一緒に一戸建てを買おうかなと、(日本の)地元であちこち見て歩いたこともありました。
でも、探していたのは、せいぜい100平米超ちょっとくらいの、ほどほどの家でした。
ところがタイに家を買う、となった瞬間から「もっと広く、もっと便利に」というのが、暗黙のスローガンに
なったような気がします。
そのうえ、家具はああいうのが欲しいとか、車は何にしようとか、物欲は限りなく肥大化していくのです。
肥大化と言っても、持っているお金はたかが知れていますから、大した贅沢ではありません。
でもどう考えても、自分のこれまでの生き方にはあまりそぐわない物欲の発露であることには変わりがないのです。
その物欲の権化のような家の新築をめぐって、夫婦で「ああでもない、こうでもない」と毎日議論しているのです。
私は、これはどこかおかしいのではないか、と思い始めました。なぜかと言うと、何でも一番いいものを妻が求め始めたからです。
それに呼応するように、私も何でも一番いいものでないと満足できない心理になってきました。
どちらがはじめに物欲の虜になったのかは微妙ですけど。
家の広さから、天井の高さから、部屋の内装から、バスタブから、トイレのグレードから、水栓の形にいたるまで、全部が全部一番高級なものを夫婦そろって求めはじめていることに気づいたのです。
チェンマイで買おうとしている車まで。
それで何が悪い?と言えばそれまでです。そんなものは個人個人のお財布の事情でしょう、と言うのは簡単です。
でも、そこに私はとても危険な罠を感じてしまうのです。
これまで、彼女と一緒に歩んできた人生は我慢の連続でした。
ボロボロの狭いアパートに住んでいたこともありますし、ここ数年は社宅で暮らしてきましたが、決して恵まれた住環境ではありませんでした。
日々の暮らしも質素なものでした。車も、一番経済的な車でした。
それが、たまたまタイに住むからといって、自分の能力の範囲とはいえ、最大限の贅沢をしてよいのかどうか。
もちろんよいのですけれど、それは心の問題にまで影を落とすことにならないのだろうか?
物質的に恵まれた暮らしなんか、私も妻も求めていなかったはずです。
ふたり一緒に生きられれば、あとは何もいらないと心底思っていたのです。
でも、タイに住むことに決めてから、貨幣価値が変わったので、無意識に生活水準を上げよう、もっと上げようと考える癖がついてきたように思います。
家を新築した途端、急に夫婦仲に危機が訪れた家族を何組か身近に知っています。
モノの豊かさはむしろ人を不幸にすることも多いということを、肝に銘じておこうと思います。
幸い、いろいろと「あれが欲しい、これが欲しい」と言っても、議論した挙句に最後は、
「あなたがいいと思うものにすれば私は満足。高いものでも、安いものでも、何でもかまいませんから。」
最後は、そうサバサバと言ってくれる妻がいる限り、私の心配は杞憂に終わるのかもしれません。
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