私は子どもの頃は昆虫少年でした。夏になると、網を持って一人で蝉取りをしたり、クワガタを探して里山を歩き回りました。虫の中でもカブトムシは、それほど好きではありませんでした。足のトゲがクワガタより大きく、力も強いので、手で持つと指が痛くなるからでした。
小学生の頃は、夏休みになると祖母が一人暮らしをしていた京都府の田舎で2~3週間を過ごすことが多く、そこでも虫を追いかけるのが私の日課でした。朝は7時半頃から9時半頃にかけて、シャーシャーシャーと啼きながら木々を飛び回る、色が真っ黒で大きなからだのクマゼミを採るのです。午後は大きな木で昼寝しているクマゼミを、長い竿の先に虫網を付けて狙います。そして夕方から夜にかけてはクワガタです。コクワガタにまじって、ノコギリクワガタやミヤマクワガタがたまに見つかりました。
夏休みのある日、祖母の家から歩いて7~8分のところにある神社へ初めてクワガタを探しに行きました。道路からほんの十メートルも境内に入ったところに太い、古い木があったのですが、懐中電灯で遠くから照らしてみると、黒いものがいっぱい蠢いていました。近寄ってみると、それは全部カブトムシでした。
クワガタやカブトムシは、夜に樹液の出るクヌギなどの広葉樹に集まってきます。甲虫の大好きな樹液の出ている場所のことを「昆虫酒場」と言います。それまでにも、ひとつの昆虫酒場にクワガタとカブトムシが2~3匹いて、場所を争いながら樹液を吸っている様子を目撃したことがありました。でも、その日見たのは両手の指でも数えきれないくらい夥しい数のカブトムシでした。しかも全部オスなのです。子ども心に、「これは夢の中の出来事ではないか」と思ったことも憶えています。
確か時刻は夜の8時過ぎ。まさかこんなにいるとは考えもしなかったので、入れるものがありません。しかも一人です。私は大慌てで家に帰り、靴の入っていた段ボール箱を持って再び神社へ走りました。ほかの誰かが見つけて、先に取られていたら大変です。
夜のクワガタやカブトムシはすごぶる活発に動きます。昼間はたいてい土の中で昼寝しているのですが、暗くなると起きてきて、とくにカブトムシはほとんど一晩中食事したり交尾したりするのです。その日のカブトムシも元気いっぱいでした。でも食事に夢中になっているので、木から剥がすのはいとも簡単です。でも捕まえるともがくので、持っていると指がすぐに痛くなります。それが10匹なのですから、9歳か10歳の子供にとっては一仕事でした。
捕まえたカブトムシはやや小さ目のものから、立派なツノをもった大きいものまで大きさは様々でした。色はほとんど真黒なのや、どう見ても赤いとしか言いようのない赤銅色のもいました。とにかくたくさんいるので、どうやって飼うか、次の日に考えることにして、とりあえず大きめの段ボール箱に入れておくことにしました。箱には入念にテープを張って、逃げ出さないように気をつけました。そして寝ている和室の隅に置いておきました。
次の日の朝。私は信じられない思いになりました。7時ごろに起きだして、真っ先に段ボール箱を開けようとしました。でもひと目で異変が起きていることが分かりました。カブトムシ1匹が通れるくらいの丸い穴が開いていたのです。そして、中には1匹もいなかったのです。
前の晩、たくさんのカブトムシを捕まえたのは、ひょっとして夢だったのかと、子ども心にもそう思いました。でも目の前の穴は、やっぱり本当にカブトムシがいたことの証拠でした。
10匹はいたのですから、何匹かでもまだ家の中のどこかにいるはずだと思って探し回りました。まだ朝の7時です。そう遠くに逃げてはいないはずです。でも、1匹も見つかりませんでした。
そういえば、夜電気を消して寝ようとしたとき、段ボール箱の中をゴソゴソと動き回るカブトムシの音がやけにうるさかったのを覚えています。脚の鋭いツメで段ボールを一生懸命引っ掻いて穴を開けたのです。どれくらい時間がかかったのでしょうか。今思えば、穴がたった一つだったことに感銘を覚えます。
あれは一体なんだったんでしょう。私はカブトムシがそれほど好きではなかったので、「これが全部クワガタだったらよかったのに!」と思いながら捕まえていたような気がします。きっと10匹のカブトムシのリーダーの1匹が、私のその気持ちを知って、全力で段ボール箱に穴を開けたのだと思います。私に飼われたくなかったのでしょう。
そのあとどうやって家の外に脱出したのかは、いまだに謎です。何日経っても1匹も見つからなかったので、その夜のうちに全員逃げ出したことは間違いなさそうです。
さて、先日、わが家の庭にカブトムシがやってきたときは、この少年の頃の思い出はまったく忘却の彼方にありました。ところが、さきほど庭の木を見てみたら、今朝見つけたメスのカブトムシの姿はどこかへ消えていました。昼日中にどうやって、どこへ飛んで行ったのでしょうか。そう思った瞬間、突然に少年時代の「カブトムシ脱走事件」のことを思い出したのです。
思えば少年時代は、決して今のように豊かではありませんでした。でもとても幸せだったような気がします。そして、こうやってタイに住んで、楽しかった昔を想起するとは、これもまた幸せのひとつかもしれません。
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今となってはすっかり都会化(?)してしまい、もう取れなくってしまったそうですが、そういう環境で育ったことは非常に恵まれていたのだなあと思います。