第三の青春-じろさん本舗

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遊歩は動的な「禅」? 無心の歩き

2006年11月06日 | ■遊歩資料アーカイブ

トラクターの騒音をものとぜず、追っても追っても逃げない。田を鋤くのを邪魔しようとする赤とんぼ、行く秋を惜しんでいるように思えました。何かあっという間に冬になる予感です。

 【遊歩のススメ】No.03

■遊歩は動的な「禅」?
いにしえ、密教行者、修験者が自然(宇宙)の神秘を自らの身体に体得すべく、ひたすら山野を、峰々を、岩場を歩き巡りました。
「瞑想」と共に重要とされたこの行は「抖そう行」と呼ばれたらしいのですが、自然の摂理、宇宙の哲理を頭だけで勉強するのではなく、険しい山林を自分の足で歩き回り、身体全体で自然や宇宙を掴みとろうとしたようです。比叡山の千日回峰、吉野山の奥駆けなどは代表的な「歩き」による修行です。
後の禅宗では、「歩き」より「座禅」という瞑想的な方法での修行が中心になりました。禅を勉強したわけでないので、的外れかも知れませんが、「渓声山色」自然の中を歩かなくても、我が身をして自然と悟れば、己が何処にあろうが、渓谷の音を聞き、山の色を見ることができるといいます。
この禅的修行の代表的な境地が「無心」とするならば、慌ただしい都会で、日々生活に追われている私たち凡人にはなかなか手の届かない境地だといえます。やはり、私たちに合ったそれなりのフィールドが先ず必要となるのでしょう。

私自身においても「一人歩き」では、往々にして「無心」を体験することがあります。疲れに喘いでいたり、ルートを必死で探していたり、風景に圧倒されたり、「無心」というより、「無我」「夢中」にちかいのでしょうが、ほどんど自分が真っ白になって、自然のフィールドで踊っているような、踊らされてるような、心地のよい状態になることがあります。考えごとをしているようで、何も考えていない。何も考えていないようで、充実している。自然に対して素直で、柔軟な自分になっている時、それも「無心」の一つというなら、遊歩は立派な「動的な禅」とも言えます。


 ひとりいる時こそ もっとも孤独から遠くへだたった世界である 〔ギボン〕

若い頃、本当に解っていたのか いなかったのか、ともかくこの言葉が救ってくれました。

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