第三の青春-じろさん本舗

地域デザイン、エコツーリズム、山芋四方山話
田舎暮らし奮戦記! じろさん本舗プレゼンツ

自分と出会う「アート」なの?

2006年11月22日 | ■遊歩資料アーカイブ

親バカですいません。娘の入選作を学校美術展へこっそり一人で見にいきました。何やら気恥ずかしくてそこそこで退散しました。
と言う訳でアートにちなんだお題に(無理やり)もっていきましょう。

 【遊歩のススメ】No.04

■遊歩は「アート」そのものなのだ!

スポーツとしての遊歩に始まって、冒険と進んできましたが、今回はアートという切り口で「遊歩」を見てみましょう。
「パフォーマンス」という言葉、最近では、今では生活用語ですが、本来は一つの先鋭的な芸術思潮で60年~70年アメリカのアーティストを中心に流行しました。簡単に言えば「アートとは作品そのものでなく、作品にいたるまでの行為こそアートなのだ」と言うことです。
初期の遊歩仲間には、私を含めモダンダンスをやっていたメンバーが数人いたこともあって、「歩き」をダンス表現の一つとして考えてみようという試みがありました。まさに再現不能の一回性アート、六甲山という巨大なステージで、観客不在のパフォーマンスでした。

東お多福山の草原でストレッチをした他は、別に踊りながら歩いた訳ではなく、見かけはごく普通のハイキングとさほど変わりないものでした。しかし、これを期に「歩き」における自己の表出の可能性を深く考えることとなりました。
その後「近所登山パフォーマンス」と称した遊歩を、公募したメンバーで十数回おこないました。参加者の多くが「ん?」「アートとしての歩き?」「自己の表出?」「なんのこっちゃ?」と思いつつ、戸惑いつつ、我が遊歩に付き合ってくれました。
昨今「アウトドア」と称して、実は「インドア」、歩きもせずキャンプ場まで車で来て、ほとんど家にいるのと変わらない設備で、自然をおう歌しているふうな連中が多いですが、そういう似非アウトドアではない、目の前の扉をたたき破って「外へ」うって出ようとするパフォーマンスへと邁進していきました。(イノシシのように)

「山へ行けば、自然に出会えるとは限らない」
「自然と出会うための心とは?」
「自然と出会う時にまだ見ぬ自分を発見する」そして
「己との出会いこそが遊歩なのだ!」

などという屁理屈で立ち向かっても巨大なステージにさんざん跳ねかえされるのがおち、それよりもより自然というステージの中に、素直に溶け込み、自分を委ねてしまうことの方がいかに自分らしくなれるものか。アートとは自己の表出に他ならない。そこには平安な感性や想いだけではなく、屈折したり、押し込められた、歪なものもあるでしょう。この社会のあふれた情報に混乱して、自分自身や自らの進む道を見失いがちな自分をとにかく表出させようと来る日もくる日も歩き続けました。

過酷な登りに喘ごう! 気の根につまずこう! 暗闇に脅えよう! 風や沢の水に感謝しよう! 雪や氷壁に驚こう! 素直に、あるがままに! 

いつの日か、山頂に立つ一歩が大切なのでなく、それに至る全ての一歩が大切だと言うことが、うなずける自分と出会えるようになりました。今までに見知らなかった自分、隠されていた己を発見することが、どれだけ私を自由にさせてくれたか。これぞ素晴らしいパフォーマンスに違いありません。

さあ!次は、いよいよ山頭火の戸惑いの歩きに肉薄する「遍歴の遊歩」がお題なのか?


 舞踏とは自らの肉体と出会うことだ 〔土方 巽〕

   遊歩もまさしくそうありたいものです。



■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟
・解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
・何時までも歩いていたいよう!(中原中也)

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キンドル出版にて、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。六甲全山縦走から穂高縦走へ・・・
続きは・・・


あの雲がおとした雨にぬれてゐる 〔山頭火〕

2006年11月11日 | ■遊歩資料アーカイブ

久しぶりの雨。これで少しは畑も湿るのかな?と言う程度。

この前の日記に「修験」で検索中に遊歩にばったり出会った方(日光院さん)からコメントをいただきましたが、私のイメージする遊歩は山修験にかなり近いかもしれません。
神戸で暮らしていた頃、「六甲山における密教的風景」というテーマで四度ばかし実践遊歩を行ったことがあります。役の行者が飛来した峰岩、幻の密教伽藍の探索、行場の古道を求めて、空海の足跡など山岳信仰の勉強をしたのを思い起こします。
日光院さんのプログを拝見して、また修験道を勉強したいなと感じました。それもデスクトップでなく実践的にです。山修験の重要性はこれからの時代ますます高まってくるものと思います。
日本人としての生き方をもう一度考え直すときには必ず不可欠なものと思います。

 あの雲がおとした雨にぬれてゐる 〔山頭火〕

大峰山ではよく雨にたたかれました。雨の山道はついついしずくこぼれる足下ばかりを見てしまうけれど・・・

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。









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遊歩は動的な「禅」? 無心の歩き

2006年11月06日 | ■遊歩資料アーカイブ

トラクターの騒音をものとぜず、追っても追っても逃げない。田を鋤くのを邪魔しようとする赤とんぼ、行く秋を惜しんでいるように思えました。何かあっという間に冬になる予感です。

 【遊歩のススメ】No.03

■遊歩は動的な「禅」?
いにしえ、密教行者、修験者が自然(宇宙)の神秘を自らの身体に体得すべく、ひたすら山野を、峰々を、岩場を歩き巡りました。
「瞑想」と共に重要とされたこの行は「抖そう行」と呼ばれたらしいのですが、自然の摂理、宇宙の哲理を頭だけで勉強するのではなく、険しい山林を自分の足で歩き回り、身体全体で自然や宇宙を掴みとろうとしたようです。比叡山の千日回峰、吉野山の奥駆けなどは代表的な「歩き」による修行です。
後の禅宗では、「歩き」より「座禅」という瞑想的な方法での修行が中心になりました。禅を勉強したわけでないので、的外れかも知れませんが、「渓声山色」自然の中を歩かなくても、我が身をして自然と悟れば、己が何処にあろうが、渓谷の音を聞き、山の色を見ることができるといいます。
この禅的修行の代表的な境地が「無心」とするならば、慌ただしい都会で、日々生活に追われている私たち凡人にはなかなか手の届かない境地だといえます。やはり、私たちに合ったそれなりのフィールドが先ず必要となるのでしょう。

私自身においても「一人歩き」では、往々にして「無心」を体験することがあります。疲れに喘いでいたり、ルートを必死で探していたり、風景に圧倒されたり、「無心」というより、「無我」「夢中」にちかいのでしょうが、ほどんど自分が真っ白になって、自然のフィールドで踊っているような、踊らされてるような、心地のよい状態になることがあります。考えごとをしているようで、何も考えていない。何も考えていないようで、充実している。自然に対して素直で、柔軟な自分になっている時、それも「無心」の一つというなら、遊歩は立派な「動的な禅」とも言えます。


 ひとりいる時こそ もっとも孤独から遠くへだたった世界である 〔ギボン〕

若い頃、本当に解っていたのか いなかったのか、ともかくこの言葉が救ってくれました。

■遊歩調査関連記事
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冒険って?(内なる未踏の地)

2006年11月02日 | ■遊歩資料アーカイブ

ここ数日は、すっかり朝夕が冷え込むようになりました。それまで一見穏やかそうな秋でしたが、気温の変化はすごいです。日中は半そで、朝はフリースという感じ。この20度近い気温の差についていけずに、ついに風邪を召してしまった。情けない!
プランターの自然薯の葉もすっかり黄色くなってきました。明日は一家で芋掘りに出かける予定です。

 【遊歩のススメ】No.02

■冒険とは?
宇宙に飛び出す以外にもう冒険は成立しないと考えられたのも、もう過去の話となりました。今では観光旅行で宇宙へ行ける時代です。

あらゆる極致に人は足を踏み入れました。地上においてほぼ「未踏の地」が失われた現代では、冒険のあり方も変わらずにはいません。よりスポーツ化され、極寒時のアタックとか、無酸素登頂とか、単独横断とか、無帰港渡航とか、なにかしら条件付加が必要になってきました。その内に裸体で登頂とか、竹馬で横断とか、少しマンガチックな光景になりそうです。
最近ではテレビで「チョモランマからの生中継」とかいうことも珍しくはありません。スポーツがそうであったように、猛々しいチャレンジ精神や自らの全存在をかけた行為としてあった冒険が、いとも簡単に「ビジネス」に置き換えられてしまいました。かつては冒険家(登山家)だけが踏みしめていた極限の地も、資金や近代装備さえあればなんら困難はありません。むしろ、大都会の闇のような暗部に足を踏み入れる方が困難かと思います。

これからの「冒険」とはもっと内的な部分で語られ、行われることだろうと想像します。
遊歩のひとつの断面には「冒険」はかかせない条件です。険しさを冒す、あえてリスクを背負う、冒険家でなくても誰でもこういう欲求にかられることがあります。その欲求が何処から沸き上ってくるのか?リスクとは何か? 現代社会の中に満ち溢れている個人的リスクから、もっともっと大きな領域で背負っているリスク、人類が何万年も背負ってきたリスクを考えてみるのも一つの冒険の、そして、遊歩のヒントかもしれません。



 道がなくなり落葉しようとしてゐる 〔山頭火〕

遍歴と言うより冒険に近かったのかな? ふとそんな風に感じました。


■遊歩調査関連記事
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