写真は母の葬儀にわたくしメ自身が母の葬儀の為に用意した花の一部です。
わたくしメのblogは非常に読者が少ない(読んで下さる方、すみません🙇♀️)ので、今までの自分の事を曝け出したくなりました。
最近は「親ガチャ」とか「毒親」とかいう言葉が当たり前に使われる時代になりましたが、わたくしメが幼少のみぎりにはその様な言葉は全く存在しませんでした。
わたくしメは3人姉妹の末っ子です。
長女・次女は年子で、今度こそ男の子をと望んだ両親の期待を見事に裏切り、女の子(三女)として生まれてしまいました。
両親の失望は半端では無かった様です。
そういった失望感は4歳違いの長女、3歳違いの次女と常に比べられ、長女や次女と同じ様に出来ない事を常に責められながら成長?しました。
小学生になる前から父から「お前の様な人間は乞食にも成れない」と言われ続けていました。
小学生になった頃には両親から疎まれ、夏休みの前半は母の実家に預けられ、夏休みの後半は父の姉の家に預けられるという、今思えば異様な小学生時代を過ごしました。
当時の両親は今のわたくしメにも理解出来ませんが、どうしようも無くわたくしメの事が嫌いだったらしく、母と姉たちがわたくしメの悪口を立ち聞きするのは日常でしたし、理由も分からないまま父からの暴力も当たり前でした。
そんな両親を見て育った姉達も、当たり前の様にわたくしメを虐めたり、嫌がらせをしたり、濡れ衣を被せたりが日常でした。
今思えば、特に勉強が出来た次女と、それなりの長女に、わたくしメの事は虐めて良い存在だと両親が思わせていたのでしょう。
馬鹿でどうしようもない人間だと思っていたわたくしメの存在自体が疎ましかったのでしょう。
なので、わたくしメには全く興味がなく「産まなけれ良かった」存在だったのです。
実際、母からは常にその様に言われていましたし…父からの理不尽な暴力も当たり前でした。
もちろん母からの体罰も日常的でした。
なので、わたくしメは自分の将来に夢や希望を持った事は有りませんでした。
だってわたくしメは、馬鹿でどうしようもなく、乞食にも成れないと言われ続けていましたので…。
姉達はピアノや油絵など、色んな習い事をさせてもらっていましたが、馬鹿でどうしようも無い人間とみなされたわたくしメはほとんど何も習わせては貰えませんでした。
ですが小学生3年生の時に父にクラシック音楽を聴かせて貰ってから、音楽にのめり込み、ほぼ独学でピアノを習得し、中学校では迷わず吹奏楽部に入部しました。
ところが中学3年生になったわたくしメが、地域でもとりあえず進学校と言われる高校に進学出来る程度に勉強が出来ると知って、笑えるくらい手の平を返してきました。
その時には、わたくしメは両親を親だと思わなくなっていました。そんなに嫌いなのなら、いっそ乳児の頃に殺してくれてたら良かったのに…とまで思っていました。
両親の期待?を裏切り?地域でも進学校と言われる程度の高校に進学し、その高校でも吹奏楽部に入部しました。
続きはまた後日